高木敏雄と近代日本の神話学――日本神話学はどう産霊神学の継承に失敗したか。

 
 普通、高木敏雄(1876― 1922)は日本神話学の最初の本格的な開拓者として高く評価される研究者である。しかし、率直にいって高木敏雄は神話学者としては中途で挫折した研究者である。以下で点検するように、その実際の神話研究は内容にとぼしく、高木の神話分析はすべて挫折したといわざるをえない1。その理由は、根本的にいえば、高木が徳川時代の本居宣長・平田篤胤が代表する「国学」、そして産霊神学の継承に失敗したことにある。彼はその処女作「素尊風神論」において高木がスサノヲが雷神であることを指摘しており、順調に学問を伸ばすことができれば、実証的な研究成果を残せたはずであるが、彼にとって神話研究の壁はあまりに大きかった2。
 このような彼の仕事の位置を考えることは、近代日本の神話学が辿った曲折の多い道を理解するためにどうしても必要なことである。

①高木敏雄の出発といわゆる久米事件


 まず高木は有名な漢学者・久米邦武が東京帝国大学を追われた事件、いわゆる久米事件の直前に同大学独逸文学科に入学しており、高木の仕事は近代の神話研究の淵源に深く関係している。久米は岩倉使節団の一員として欧米を視察した明治国家の中枢にいた学者官僚であるが、その有名な論文「神道は祭天の古俗」(一八九一)は「新嘗祭は天照大神を祭るに非ず」、それは「天を祭る古典」である3。それは中国・韓国にもある「東洋の古俗」の日本的な形態であって、その「東洋の古俗」を残していることこそが、日本の天皇の万代一系の誇るべき伝統の基礎であると述べたものである4。実際に読んでみると、その組み立ては不思議に平田と相似するアジア主義をも感じさせるもので、明治国家の中では一種の常識に属する部分も多い。「神の事には迷溺たる謬説の多きものなれば、神道・仏教・儒学に偏信の意念を去りて公正に考えるは史学の責任なるべし」という議論、また「神道は宗教にあらず」という神道習俗論も、明治国家の実際においては決して極端なものではない5。久米の動きは一八八七年ドイツからランケの弟子のリースの来日、一八八八年の帝国大学への修史局の移管(後に東京大学史料編纂所となる)、一八八九年の国史科開設(後の東京大学文学部日本史学研究室となる)という日本史学のアカデミズムの本格的出発の表現であったというべきであろう。
 しかし、久米の明解な論断は明治国家の神祇官系の組織などに残っていた官許の国学者や、いまだに「祭政一致・廃仏棄釈」を主張する一部の神道家にとって我慢できないものであった。また日本史学のアカデミズムの出発が、久米のほか重野安繹・星野恒らの漢学・儒学のイニシアティヴの中にあったことへの反発もあったのであろう。こうして日本国家の中枢には水戸派の名分論的な儒学は別として、本格的な儒学の影響は消されていった。前述のように『国体の本義』は儒教イデオロギーを重視していたのは皮肉な話で、、この結果、大日本帝国はいわば儒学なき儒教国家、擬似儒教国家というべきものになったのである。しかも、この事件によって神話研究と歴史学は学問研究の自由のない状態で出発することになったのである。
 高木はこのような雰囲気に対抗して神話学研究のイニシアティブをとり、アニミズム論で有名なタイラーや、ラングの人類学派的神話学など、ヨーロッパ神話学の紹介者となった6。もちろん、ヨーロッパの学問の輸入であるといっても、ここで高木が学術としての神話学の実証的・科学的方法論の意義を強調し、人類に共通する普遍的な神話的な世界観を追究しようとしたことにはそれなりの意味を認めるべきであろう。
 またそもそも、彼の向き合わねばならなかったものは大きかった。それは二八歳の時の著作『比較神話学』の序文に「顧みれば既に十余年以前、日本古代史の研究甚だしく隆盛を極めし当時に於て、神代史研究の必然の結果として、日本神話の研究も亦たまさに、其萌芽を発せんとしつつありしなり。不幸にして、云うに忍びざる或事件の発生によりて、神代史研究の発達に、一頓挫を来せしより、学者亦た再び神代史に就て議論せざるに至り、惜いかな、神話学は遂に発生するに至らずして止みぬ(中略)。学者は唯奇禍の其身に及ばんことをのみ恐れて、祖国の神話に関して、全く顧みることなく、之に対して極めて冷淡の態度を取れり」「祖国の人文に貢献せんとの志あらん者は、決して神話学に対して、かくの如く冷淡なること能わざる可し。決して今日の状態に、満足すること能わざる可し。今日の如き状態は、到底久しく忍ぶ可からざるなり」とあることがよく示している。この「云うに忍びざる或事件」が久米事件であったことはいうまでもない。
 さらに重要なのは「徳川時代において唱道せられし神代史の自由討究は、ここに至りてたちまち大なる頓挫を来たし」(高木一九〇二「日本神話学の歴史的概観」八一頁)と、明治時代における研究の自由の抑圧は徳川時代よりも悪いとしていることだろう。そして「かって東満にはじまり真淵、宣長、篤胤らを代表者として一世を風靡せし国学」が、こういう「頓挫」の状況におちいったのは「後の国学者がいたづらに旧説を墨守し偏狭なる小天地に籠居して、毫も改革進歩の勇気なかりしによる」として、高木は本居・平田の本来の「国学」と国学の「頓挫」をもたらした明治国家の官許の国学者を区別している(高木一八九九「偏狭なる国学論」三五三頁)。さらに、そのような学問の弱体化と明治国家による研究の自由の抑圧を条件として「普通教育の十数年は、外国の事物に関して、多くの智識を与うることを知るも、祖国の神話に関しては、殆んど何等の智識をも、与うること能わず」という結果がもたらされたと『比較神話学』(序)において悲憤慷慨しているのは、現代にも通ずる問題を感じさせる。

②高木と本居宣長『古事記伝』・平田篤胤『古史伝』


 そもそも高木は「本居宣長の『古事記伝』と、平田篤胤の『古史伝』とはその思想の頑迷なるにもかかわらず、今日において神話学者に研究の材料を供給することの多き点においては、なお貴重な著述たるの価値を失わず」とし、とくに宣長による「比類なき国語学の隆盛」は「将来の神話学の発達に資する所少なからざる」と論じている。実際に高木の著書のそこそこに神話の解釈にあたって『古事記伝』と『古史伝』を参照している様子を知ることができる。また高木が神話学にとって「日本言語学の不完全」は最大の問題で、近代の言語学界が文法や口語の研究では若干の進展をえているものの、古語の語源的研究においては、国学者の語源的研究以上のものをもっていないともいっている(高木一九〇二「日本神話学の歴史的概観」七五頁)。高木が本居・平田を高く評価していることは明らかである。
 しかし、高木の本居・平田に対する評価には相当の歪みがあったことも否定すべきではないだろう。つまり、残念ながら高木もヨーロッパ学術の輸入者として一種の「洋学紳士」であったのであって、高木は「維新以来ここに三十有余年、かって野蛮蒙昧を以て笑われし極東の帝国は、今や進んでその文化を以って世界の耳目を聳動せんとす」という立場から国学は本質的に固陋なものだと断言している(三五三)。これは明治国家の「欧化」政策の中で活動し、近代の文明的帝国の学者を自認する立場からの一方的な決めつけであろう。もちろん、近代的なアカデミー、大学組織の学術方法論と本居・平田の学問が異なるのは自然なことで、その意味では高木が本居・平田の「国学」自体が「狭隘なる一種の理想」の中にあるものであると指摘するのは高木のいう通りであろう。しかし、高木は「(明治の国学者の)根本的誤謬は国学そのものの主義において存す」として、結局、その「思想の頑迷さ」は本居・平田も同じであると論じている。そして高木は、そもそも宣長・篤胤が産霊神道の信仰をもとに研究すること自体を「科学的にあらざる学問」「独断的の原理に拠りて教うる宗教のごときもの」と論難する。高木は、神学という学問の存在自体を認めないのである。
 結局、このような高木の立ち位置が記紀神話の解釈にあたっては本居・平田に多くを依拠しながら、高木をして、本居・平田が立ち止まったところを超えて本格的に『古事記』『日本書紀』解釈を積み重ねていくという実証的日本神話学の建設に進ませなかったのである。何よりも問題なのは、高木は「日本神話学の祖」といわれるにもかかわらず、その教養はドイツ語によるヨーロッパ神話学の理解によってできており、率直にいって『古事記』『日本書紀』などの古典を真摯に読み込む力はなかったのである。それは結局、宣長・篤胤が打ち立てた産霊神道の神学に基づくその内側から理解しようとはしないという学者としての狭い姿勢、先学への本当の意味での敬意を欠くという姿勢に関係していると考える。高木が「素尊風神論」において雷神に少しふれているだけに、これは極めて残念なことであった。高木が、上記に述べてきたような本居・平田の発想の内側に入りこむことから出発していれば、日本神話学の研究史は異なっていたであろうというのが私の考え方である。

③アマテラス中心主義のアカデミズム的俗流化――高木敏雄による産霊神学の無視の誤り


 これは高木が日本神話学の出発時点で結局、タカミムスヒを論ずることに失敗したことに関係している。高木、そして高木とほぼ同世代の津田が、本居・平田の産霊神学を受けつごうとしなかったことが、いかに倭国神話の理解を誤まらせたかを確認するためには、高木を厳しく批判しておくことが必要である。タカミムスヒを論ずるためには、なぜ、タカミムスヒが無視されたのか、それがいかに倭国神話の俗流理解を導いたかをみておくことが必要である。
 高木は一九一二年の論文「古事記について」では、『古事記』冒頭の「造化三神」について「この一節は徳川時代には非常に重きを置かれ、造化三神といって、これは神道の大事な所である、ということになっておりますけれども、これが果して眞実の伝承であるか、あるいは特に尊ぶべきものであるかということは、ほかの書物から証明できません」。これは「シナの思想の影響をうけたもので(中略)安麻呂が自分で独断的に書いたのであります」という(127~129)。タカミムスヒなどの造化三神は中国の影響のもとで作られた神であるという津田左右吉と同じ議論である。そして、一九一七年の論文「日本国民性と神話」では、結局、「造化三神は学問上からいえばどんな神であるかはわからない」「(神世七代について)ただ天つ神の名を並べたばかりであって、どういうふうに説いてよろしいのか分かりませぬ」(100~101)という。
 ムスヒの語義については、一八九九年の論文「珍奇なる神代史論」では、産霊の語義が本居のいうように「男子、女子または苔牟須などのごとく、物の成りいずるをいう」ということを認めている。しかし、一九〇一年の論文「大国主命の神話」では、高木はムスヒを「生成の義」と解する本居の見解に対して、『狭衣物語』『宇津保物語』』夫木和歌抄』などの事例をひいて「中古以来の文学においては、むすぶの神の文字は全く結縁の義として用いられたり」として、それを撤回し、垂加神道のような「ムスヒ=結び」説をもちだしている(「大国主命の神話」『日本神話伝説の研究1』二九四頁)。これは折口などの「ムスヒ=結び」説に影響したに違いない。しかし、高木はムスヒを結婚の神に直結して、出雲大社が縁結びの神であるなどの習俗を根拠にしてこれを論ずる。高木によれば、問題は出雲の縁結びの神がスサノヲであったか、オホクニヌシであったかにあるというのである。高木は、これを問題にする場合に何よりも重要な本居第二説、「ムスヒ=子を産む霊異」説、そして平田の学説を無視する。それにも関わらず、『広益俗説弁』『鹿島志』『神路事触』などの近世の神道書を区別せず持ちだしている。
 しかも、これは一九〇四年刊行の『比較神話学』では、さらに三転し、『古事記』冒頭の造化三神の条は「万物生成の力」を表示したものであるとして最初に戻っている。もとより、これは若年の未成熟の表現であったとしても、このような動揺の結果が、結局、「どういうふうに説いてよろしいのか分かりませぬ」という不可知論をもたらしたのであって、高木はそもそも体系的な神学的思考へ集中が鈍いのである。
 なによりも問題なのは、高木が「造化三神はどんな神であるかはわからない」としながら、実際には日本神話の至上神を皇祖神アマテラスとしていたことである。高木は「天照大御神は歴史上より論ずるときは、皇室の御先祖にして、われわれが日々見る太陽そのものにあらざることは、今日にては三尺の童子さえ知らぬはなき」(高木一八九九「珍奇なる神代史論」)、「日本神話は国家的神話でありまして皇室の由来を明らかにしたところにその特色があります」(「古事記について」一九一二)などと述べて、明治国家のアマテラス中心の神話観を繰り返している。高木は国家思想の中心をアマテラスの「天壌無窮の神勅」に置く明治国家のイデオロギーに疑問をもっていない。高木はこの点では津田左右吉と同様に、本居・平田よりも明治の国家神道と考え方を同じくしていたのである。率直にいって、高木と津田によって、日本神話学は本居・平田の仕事を受け継いで神話テキストの意味と内容を一つ一つ確定していくという学問的に当然の道を外れてしまったのである。
 高木の神話論がスサノヲーオホクニヌシを中心としているのも、このような俗流化の結果である。そもそもそれは一八九九年に発表された高山樗牛「古事記神代巻の神話及歴史」に刺激されたものであった。樗牛は「日本主義」で有名な美学者・文芸評論家であるが、この論文で素戔嗚尊をインドのヴェーダの神、インドラの神話から南海まわりで伝播してきた嵐の神であるとした。そもそも高山の主張は『古事記』神代巻の神話は「アリアン諸民族に見るごとき天地開闢説に連なれる太陽神話」であり、スサノヲもインドのインドラの神話が南海まわりで伝播してきた嵐の神であるというもので、ヨーロッパのアーリア神話論を日本神話に機械的にもちこもうとしたものである。日本の近代思想史の中でのアーリア神話論の意味については安藤礼二『場所と産霊 近代日本思想史』を参照されたいが7、高山は、その文脈を前提として、アマテラスとスサノヲとの争いは「太陽と嵐との空中にその優劣を争う」神話であると論じたのである。樗牛の議論は学術的な体裁をとっているとはいえ、本質は現在の通俗的な神話論にもよくみられるような、国粋的心情を教養主義で飾ったような思いつきにすぎないから、これは日本神話学が、どれだけレヴェルの低いところから出発したかを示している。当時、高木はまだ独文科在学中であったが、それに賛成して「高山氏の古事記論」「素尊風神論」を発表したのである。しかし、残念ながら、ここには久米邦武の議論がもっていたような格調というべきものが存在しない。
 まず樗牛の議論を確認すると、①アマテラスが天石屋戸に隠れたのは、驟雨神・暴風雨神であるスサノヲによって、天日が嵐によって覆われたということだと論ずる。さらにスサノヲが父イサナキに嫌われて大泣きして②「青山は枯山なす泣き枯らし、河海は悉悉に泣き乾しき」といわれ、スサノヲが天に上昇する時に③「山川悉々に動み、国土皆震ひし」(『古事記』)とあるのも大嵐の表現だという(なお高木は、これにつけ加えて、スサノヲは黄泉国から帰ったイサナキが禊ぎをしたときに、その鼻から生まれた。それ故に息吹の神、風神であるとしている)。
 しかし、これは史料の勝手読みにすぎない。もちろん、スサノヲは父神イサナキから海の統治を命ぜられているから海神・水神の性格をもっている。スサノヲが天から下界に追放されたとき、「霖」が続き「風雨甚だふききる」という史料はそのまま暴風雨神であるという証拠にはならないとしても(『書紀』異書三)、その属性に風雨が含まれていた可能性は十分にある。しかし、樗牛が①スサノヲはアマテラスの太陽に対抗する嵐であるとして、それを主要属性とするのは根拠のない思いつきである。また②は寺田寅彦に従って火山噴火の様子を示したものとすることができるのは前述の通りである。ただこれは私説であって、議論による点検を経ていないので反論の可能性はあるだろう。しかし、③も私説ではあるが、別に論じたように、さまざまな徴証とあわせて、スサノヲが地震神であることの表現であることは確実である(保立二〇一五、二〇一二)。高木は『比較神話学』においてもこの③を「海島国における暴風雨襲来の状を記するもの」とするが、暴風雨を「山川悉々に動み、国土皆震ひし」とするのは過剰な読み込みである。これだけのことで「アマテラス=太陽=光、スサノヲ=嵐=暗黒」という図式をえがくのは学問的な論証というよりも、アマテラスを太陽の至上神とする前提から導き出されたものにすぎない。
 このような高山樗牛・高木の議論の欠陥は、一読、明らかなことであって、これは当時も姉崎正治が明瞭に批判したことである。姉崎は宗教学の開拓者の位置にある学者で樗牛の友人であったが、インドラとスサノヲの類似に南海まわりの伝播をみる高山の見解を一蹴した上で、右の①②③などからスサノヲが驟雨神であることを導くのは無理であるとしている。論拠は私とは違うが、それはどの観点からみても高山説が神話の勝手読みであることを示す。姉崎がスサノヲの性格はより複雑なものであるというのも正しく、そこでは、以降、スサノヲ論で繰り返される論点の多くがすでに指摘されている(姉崎一八九九)。
 これによって高山は神話論から撤退したが、そういう訳には行かなかった高木は姉崎の批判をふまえ、「素尊風神論」を再検討し、論の体裁を整えることによって神話学者となっていったのである。しかし、この出発点は高木の日本神話論を深く規定することになった。そこで大きかったのは、第一に樗牛のみでなく、姉崎もアマテラス中心主義であったことである。姉崎はスサノヲは、驟雨神であるのではなくより広く「最大・偉上の統治者なる天照大神に対して対峙的位置」にある存在であり、ここに「日本宗教の二元対峙的特色がある」と一般化することによってアマテラス中心主義を宗教学的真理の位置に格上げしたのである。
 こうして、高木は最初から倭国神話を主人公アマテラスと副主人公スサノヲの対立をもって語るという枠組みの中で研究を開始することになったのである。明治時代以降のアマテラス中心主義の下では、中性的あるいは受動的なアマテラスの物語だけでは躍動性を欠くために、こういう神話の語り方がしばしば行われた。日本神話を宗教的な論理としてでなく、物語として語るやり方である。高山・高木の議論は、そのような通俗的な日本神話の語り方の原型を提供した。ここには神話理解としても神道信仰のあり方としても積極的なものはほとんどなかったといわざるをえない。
 これは神話理解からタカミムスヒを排除したことの必然的な結果であった。これは高木が産霊神道のムスヒの定義を無視したということだけではない。本居がタカミムスヒの至上神としての位置を確定したのは、ムスヒの理解だけでなく、神話物語全体の中でタカミムスヒが物語の展開において緊要な役割をしているという『古事記』『日本書紀』の読みにあった。つまり念のために繰り返しておけば、①伊弉那岐神・伊邪那美神が国土・万物と神々を生み出したのは(天浮橋に降りよという)「天神の証命」によるが、この天神の中心はタカミムスヒであったこと、②アマテラスが天の石屋戸に籠もった時も、ニニギを天降らせるために、葦原中国を平定するときも、それを差配したのは、タカミムスヒの息子神である思金神であったこと、③大国主命と一緒に国作りに動いたスクナヒコナもタカミムスヒの子であったこと、④タカミムスヒの娘の豊秋津師比売がアマテラスとスサノヲの姉弟婚から生まれた男子(忍穂耳命)との間に霧島に降臨した天孫ニニギを産んだこと、⑤葦原中国の荒ぶる神を抑えこみ、天孫降臨が行われたこと自体が「此神の詔命」、タカミムスヒの詔命によることなどが本居が指摘したことである。
 宣長は、このような神話の物語構造を確認した上で、「大かた是らを以て、世に諸の物類も事業も成るは、みな此神の産霊の御徳なることを考へ知べし」と述べている。これは『古事記』『日本書紀』を熟読すれば誰でもわかることであって、そこから離れることは神話テキストの解釈の基本ができていないことを意味する。高木は未熟なまま、倭国神話の物語のすべてをアマテラスとスサノヲの物語に還元してしまった。これが高木の『古事記』『日本書紀』の読み方を非常に狭く浅いものにしたのである。

④「高天原系神話、出雲系神話」の二分割図式――高木によるムスヒ神話圏の追放


 倭国神話を主人公アマテラスと副主人公スサノヲの対立をもって語るという枠組みは、アマテラスを中心とする「高天原神話」と、スサノヲ(及びオホアナムチ)を中心とする「出雲神話」という図式になっていく。
 この前提となったのは、姉崎がアマテラスの神話を「天孫民族」の神話、スサノヲの神話を「出雲民族」の神話であると特徴づけたことである。これは倭国神話はヤマトに拠点をもった「天孫民族」が「出雲民族」を征服するという社会・国家の構造からうまれたものだという説明である。これも産霊神学を拒否し、タカミムスヒ・カミムスヒ(及びオホアナムチ)を無視したことの一つの結果であったことはいうまでもない。
 高木は姉崎の批判をうけたのちに執筆したスサノヲについての第二論文「素戔嗚尊神話に現れたる高天原要素と出雲要素」で、「高天原要素と出雲要素」という形でそれを示した。これ以降、倭国神話を「高天原系神話」と「出雲系神話」に二大別することが日本神話論の「通説」となっていく。それは熊本高等学校で高木の学生であった松村武雄が戦争中の著作『民族性と神話』で「出雲系神話群がおとなしく高天原系神話群に包摂せられ」ることが「皇室の御祖先の建国的活動の威力を発揮する役割をつとめた」と述べた政治的なニュアンスを含んでいた。松村は、戦後、このような主張を強く反省しているが、この松村の意見は明治時代以降のアマテラス中心主義の下で、「高天原系神話」と「出雲系神話」という神話の語り方が、実際には「皇室の御祖先の建国的活動」を讃美するために語られた事情をよく示している。
 もとより、この用語法は、現在の神話学研究では基本的に乗り超えられている。つまり、まずスサノヲ・オホクニヌシの神話を「出雲系神話」とすることについては、一九五四年に発表された田中卓の論文「古代出雲攷」、そしてそれに遅れて一九五七年に発表された石母田正の論文「国作りの物語についての覚書」がオホナムチ神話はヤマトあるいは近畿地方全体に広がっていた神話であったということを共通して主張している(参照保立二〇一五)。「出雲系神話」の中には「出雲」という地域よりも広い神話が流れ込んでいることになる。それが通説となったことは、次の岡田精司の文章に明らかである。
 地方の神々のほとんどは”出雲”に結びつけられているが、実際の”出雲”地方とは無関係の筑紫の宗形神や近江の日吉神社の大山咋神なども、出雲の神々の系譜に含まれている。出雲神話の中心をなす大国主の物語は、『古事記』では説話の一段ごとに主人公の名前が変わっているように、出雲神話といわれるもの(――傍点筆者)は地方神話を集成したものであることは明らかである。朝廷に屈服し、服属儀礼をささげる集団の神話を集大成したものと思われる。出雲神話のクライマックスをなす国譲り神話が服属儀礼の儀礼神話であることは、その性格を明瞭に物語っている。               (『古代祭祀の史的研究』二〇頁)。
 岡田のいうように、「出雲神話といわれるもの」は地方神話を集成した創造物であって、それに「出雲」という地域名をかぶせるのは正しくない。それは神話論の問題であるだけでなく、ヤマト王権と地方の服属関係を、ヤマト――出雲の関係に単純化し、図式化してしまうことであり、さらにそれを「天孫民族」と「出雲民族」の対立関係などとするのは神話の理解の誤りを国家・社会の理解の誤りに拡大することであって、まったく意味のないことである。
 また、高天原系神話という用語も不適当である。つまり中村啓信は高天原という用語自体が『古事記』特有のものであったことを明らかにした。その事情を分析することなく、もっぱら『古事記』によって倭国神話のアマテラス神話を「高天原系神話」と表現し、天空神話を、実際上、アマテラス神話に限定してしまうことは認められない。
 中村によれば『日本書紀』神代巻に登場する「高天原」は四例だがそれらはすべて異書にでるものであって、本文には一例もなく、そこでは天界は一般に「天・天上」あるいは「天の原」(四例)とのみ表現される。それに対して『古事記』には「高天原」は一一箇所登場しており、これは高天原という用語が『古事記』独自の神学的概念であることを示している。これが『古事記』の編纂の実際上の中心であった持統天皇の諡号、「高天原広野姫天皇」に対応するものであろうことも認められているところである。神野志隆光がいうように、これが現在の通説であろう(二〇〇八)。
 問題は、なぜ『古事記』において「高天原」という天界観念が創出されたかということであるが、中村は、『古事記』冒頭節が「天地初めて発くる時に、高天原に成れる神の名は」と始まることを重視し、「高天原」は「この皇統譜の始源的根拠の図式化に明確な隈取りをあたえる要素である」とした。「高天原」の観念の成立は『古事記』が造化三神に始まる皇統譜を重視したためだというのである。神野志は、それに依拠して「高天原」とはタカミムスヒ・カミムスヒのムスヒ(生成の霊威)の発現する場として設定されたのだと主張した。これは本居の「ムスヒ=生成の霊威」説の最新ヴァージョンである。
 しかし、素直にみれば、「高天原」観念の成立の主要な理由は『古事記』におけるアマテラスの至上神化を背景としていたというべきであろう。つまり『古事記』で「高天原」が登場するのは造化三神にふれた冒頭節一箇所を別にして一〇箇所であるが、そのうち一箇所がイサナキによるアマテラスに対する「汝命は高天原を知らせ」という命令であり、四箇所がアマテラスの光輝く勢威を語る天岩屋戸物語に登場する。ようするに半分は直接にアマテラスに関わる表現なのである。そして残りの五箇所のうち三箇所は「底津石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽高しり」という祝詞的な呪句であり、一箇所も「高天原には、神産巣日御祖命のとだる天の新巣の凝烟の八拳垂るまで焼き挙げ、地の下は底津石根に焼き凝らして」というそれに準ずる呪句である。中村は「高天原」という語は祝詞に多く登場するが、それらはどちらかと言えば新しい祝詞に登場し、そこには中臣氏が関わっているとのべている。この「高天原」という天空観念の広まりは中臣氏が関係しているというのである。残ったのは一箇所であるが、それも天孫降臨神話において、猿田彦が「天の八衢に居て、上は高天原を光(てら)し、下は葦原中国を光す神」といわれている箇所であって、高天原を光の勢威というニュアンスで述べたものである。
 この全体をみると、「高天原」は直接にはアマテラスの物語と縁が深く、『古事記』におけるアマテラス神話の中心化に関係して創出された天界概念であったことになるだろう。少なくとも史料から推定できる限りでは、「高天原広野姫」という諡号をもつ持統天皇の宮廷において、女神アマテラスの神学の一部として創出されたと考える方が妥当であろう。中村は、「高天原」以前に一般的であったのは、『日本書紀』によると、「天」、そうでなければ「天の原」あるいは「天安河原」「天香山」などの具体的な地名であったというが、それらを統合し、日神が光輝く場として神学的観念として「高天原広野姫」という諡号とともに打ち出されたのが「高天原」であったのであろう。「高天原系神話」とはアマテラス神話を中心に使用されるに至った概念なのである。
 これは逆にいえば、倭国神話における天空の神話を「高天原系神話」と呼ぶことは適当でないということになり、現実の天空の神話の本来のスタイルは、「高天原」の言葉に隠れた天空の至上神タカミムスヒの神話として復元されねばならないということになっていくのである。
 なお、「高天原系神話」と「出雲系神話」という言葉は便利な言葉である。前述のように、松村はこの言葉を「皇室の御祖先の建国的活動」を讃美する意味で使ったが、それを反省した戦後になっても、倭国神話を「天皇氏神話圏」と「出雲系氏族神話圏」に二大別すること自体は、大著『日本神話の研究』においても変わっていない。そのときは岡田・中村による前記のような徹底的な検討・批判がなかったために松村も自説の問題を徹底的に自覚することはできなかったのであろう。戦後になってもたとえば上田正昭の『日本神話』(一九七〇、九九頁)、青木紀元『日本神話の基礎的研究』(一九七〇、一三七頁)などの代表的研究者の重要著作で、それが繰り返されてきたから、現在でもよく使われるのはやむをえないところがある。しかし、そろそろこういう決まり文句はなくしていった方がよいだろう。

⑤天空の「高天・低天」への恣意的分割――高木による雷神の排除


 さて、高木の議論は、このような「アマテラス=高天原系神話」、「スサノヲ=出雲系神話」という誤った議論枠組みを学術的な用語として作りだしたというだけでなく、肝心の「素尊風神論」という本体自体に重大な問題をふくんでいた。
 そもそも高山樗牛がインドラをもっぱら「驟雨神」と論じたことがおかしかった。高木はそれにそのまま乗ったのであるが、クーンやマックス・ミュラーなどの「自然神話学派」以来、一九八〇年刊行の上村勝彦『インド神話』まで、インドラは驟雨神というよりもまず雷電神であるとされている。問題を混乱させたのは、姉崎が樗牛への批判論文の第二節「素戔嗚尊とインドラとの比較 素戔嗚神話は驟雨神話にあらず」において、インドラが雷電神=驟雨神であるというクーンやマックス・ミュラーも引きながらも、インドラが雷電神である証拠はなく、それ故に驟雨神である証拠はないとしたことである。そして、姉崎はそもそもインドラは自然神ではなく武勇の神という意味で人文神であったと論じた。このころは、一九世紀に一世を風靡した「自然神話学派」が批判をうけて凋落した時期であったから、ヨーロッパ神話学の輸入を専門としていた高木も、それを無視する訳にはいかず、その点では姉崎の議論を承認し、しかし、人文神にも自然的基礎はあるなどと反論したのである。
 問題は、その中で雷神の問題が脇に置かれてしまったことである。神話論の常識からいえばゼウスの雷電を想起するまでもなく、風を支配するのは雷神であって、風雨は結果であるから、風神を論じながら雷神を無視することは理解しにくい論理である。高木は、それを天空には「高天」と「低天」があるという論理によって説明した。つまり高木はアマテラスの支配する「光明の世界」としての「高天」と、スサノヲが支配する「普通の気象現象」の世界、「低天」に天空を分割するのである。前者は「蒼々として穹窿状をなせる天の部分」、「つねに玲瓏清透にして自ずから光明の世界」であり、後者は「普通の気象現象、すなわち雨・雪・風・雲・雷鳴・雷光等の発生して、その力を逞しゅうする天の部分」であるという訳である(「素尊風神論」『日本神話伝説の研究1』東洋文庫、178ー180)。高木の「素尊風神論」全体で「雷鳴・雷光」にふれているのは、この「低天」の定義に関わる一箇所のみである。ここまで高木が雷神に言及することを避けたのは奇妙なことである。
 これは高山樗牛が倭国神話をアマテラスとスサノヲが「太陽と嵐との空中にその優劣を争う」神話であるとしたことを言葉を換えて繰り返したものである。つまり、以上にみてきたように、高木は高山の議論をうけて、①倭国神話を主人公をアマテラスとし、副主人公をスサノヲとする物語に単純化し、②次に倭国神話をアマテラスの「高天原系神話」とスサノヲの「出雲系神話」に分割し、③さらにそれを「高天」と「低天」に言い換えた。私は、①②まではありうることであったと思うが、最後の③の「高天」と「低天」への言い換えは問題が多いと思う。つまり「雷鳴・雷光」は雲の上から光るのであって、天空全体に関わる「聖的な現象(ヒエロファニー)」、神秘の現象である。それにも関わらず、高木はそれをもっぱら「低天」の「普通の気象現象」であるとする。たしかに近代的常識では雷電は雲の帯電によって発生する「普通の気象現象」であろうが、高木がそれによって「低天」の定義を行ったのは、ただアマテラスースサノヲ図式の辻褄を合わせるためであったというほかない。
 高木はインドラがヨーロッパ神話学で雷神とされていたことはよく知っていたはずである。それにも関わらず、おそらく姉崎がインドラが雷神であることを否定したことを奇貨として、意識的に雷神を無視したのである。高木は、スサノヲをもっぱら「普通の気象現象」を代表する驟雨神であるとのみして、自分の図式に都合の雷神の側面を隠して図式を作ったとしかいいようがない。これは高木にとっては言葉の上だけのことであれ苦労して辻褄をあわせたということであろうが、学術論文としてはきわめて問題が多い。これが産霊神道を拒否して、ムスヒ神を倭国神話から排除し、アマテラス中心主義をとったことの結果であった。
 おそらく高木自身も姉崎の批判によって「素尊風神論」には史料的な論証が不足していることを自覚していたようにみえる。そのため、高木はスサノヲについての第二論文「素戔嗚尊神話に現れたる高天原要素と出雲要素」(高木一九一四)において祈年祭について史料にさかのぼって論じた。祈年祭とは後に詳しく述べるように(第三章一節)、年初二月に、「その年の風雨時をえて五穀豊穣」(214)を願う国家の農業祭祀であるが、高木はこれについて二つの主張を展開した。第一は「皇孫命(天皇)が天照大御神の子孫として祈年祭に御年神たちを祭られるのはすなわち天照大御神が高天原において神々を祭られたのを継承したものである」(246)として、祈年祭の主神をアマテラスとしてしまう。しかし、祈年祭の主神は神漏伎命・神漏弥命であって、この二神は「タカミムスヒとカミムスヒは独神か、夫妻神か」でふれたように平田がタカミムスヒ・カミムスヒであるとするのが正しい。もちろん、本居は神漏弥命をアマテラスであるとしているのであるが、高木はこの平田・本居の見解の相違を検討した様子もなく、そもそもこれが基本問題であるという認識もない。こうして高木は祈年祭とタカミムスヒの関係などは考えようともしないのであるが、それは高木がアマテラス中心主義にまったく囚われているためである。
 さらに高木は、この祈年祭おいて祈祷の対象となった「年神」はスサノヲの系列の神であるから、やはりスサノヲは風雨を差配する風神であるとした。ようするに高木は祈年祭についてもすべてアマテラス――スサノヲ枢軸で理解し、タカミムスヒには一顧もしないのであるが、その論拠は祈年祭祝詞に「年神」に献上するとでてくる「白猪・白馬・白鶏」が『古語拾遺』の御歳神の項にも登場しており、そこでは「大地主神」(大国主命)が「白猪・白馬・白鶏」を「年神」に献上しているから、「年神」はスサノヲ――オホクニヌシの系列に属する神であるということにあった。しかし高木は祈年祭祝詞にでる「白猪・白鶏」の解釈において、前述のように伴信友が賀茂神社で人々が猪頭をかぶって祭に参加するのは雷神が猪に似た雷獣の姿をとることがあるという指摘を見逃している。明治期の研究者が伴信友の見解を見逃すというのは少し信じられない話である。そもそも後に説明するように「年神」は林屋辰三郎がいうように「年穀の神という雷神観」の中で理解すべきものである。また『続日本紀』(天平九年八月一三日条)によれば祈年祭は「その年の風雨時をえて五穀豊穣」を願う祭祀であり、「諸国にありて能く風雨を起こし、爲国家のため有驗の神」を祭る祭祀であるが、地方には風雨神一般などというものは存在しないのであって、この神は「能く風雨を起こす」神なのであって雷神とするほかない。高木は、右の『続日本紀』も参照せずに祈年祭を検討していたのであって、それでは意味のある議論はむずかしい。高木の祈年祭祝詞や『古語拾遺』の解釈にはその他にも一読して素人的な誤りがめだつのである。

まとめ――高木の神話学研究の挫折


 結局、この中で高木の神話学研究は挫折した。つまり高木は右にふれたスサノヲについての第二論文「素戔嗚尊神話に現れたる高天原要素と出雲要素」(高木一九一四)を執筆するなどの研究を進めたが、結局、『日本書紀』『古事記』を神話として具体的に研究することはできなかった。もちろん、そのための研究の自由に大きな制限があったのは事実である。それは柳田が「今でこそ我々は、神代巻の或記事を神話と見ることを許され、所謂田夫野人の日常行事の中から、古日本人の思想と宇宙観とを発見しようとする態度を嘲笑せられずに居られるが、高木君の初期にはそれは無謀なる大胆であった」(柳田「序」、高木『日本神話伝説の研究』、東洋文庫、一九二五)と述べている通りである。しかし、柳田がさらに「その上に高木君の気質にもじっと書斎の忍耐を続けて行けるだろうかを、危ましめるものがあった」というように、高木は本居・平田を継いで神話テキストを正確に読み込んでいくタイプの研究者ではなかった。高木はその中で、柳田の主催していた『郷土研究』という雑誌の編集に参加し、三〇代の後半以降は、神話というよりも「民間説話」の蒐集と解釈に仕事の重点を移してしまったのである。高木が日韓の説話比較など、南方熊楠と並んで「比較説話学」というべき研究分野を精力的に開拓したことは別に評価すべきことではあるが、神話学者としてはまとまらないままに不運な病によって世を去ったのである。
 柳田と高木の関係を全体としてどう考えるか、とくに高木が、結局、柳田とのはじめた『郷土研究』の共同編集を途中で脱けた事情などは不明のままになっているが(参照、鈴木寛之「『郷土研究』創刊号と高木敏雄」(熊本大学『文学部論叢』八一号、2004)、ここにはおそらく高木の側の事情だけでなく、柳田の側の事情もあったのであろう。柳田はアジア太平洋戦争の後の折口信夫との対談で、自身は「この間にいろいろ政治的な意図がありましたから、私は避けたのです」と神話研究に踏み込むことを「政治」との関係で慎重にさけたことを告白している。しかし神話学の開拓者を自認する高木にとっては、それと向き合うことは避けるわけにはいかない課題であったはずである。(教え子たちによって)「激しい気性の鋭い頭脳のもちぬしであった」(布村一九七三)といわれる高木にとって、「民間説話」の研究は矛盾の中での選択であったのではないかと思う。
 これとの関係で注意しておきたいのは、折口信夫が高木を意識していたことである。折口は中学生の時代に高木の「羽衣伝説」についての論文を印象深く読んだといい、戦後に行われた柳田との対談でも、「高木さん、松村((武雄))さんの労力に対してすまない気持ちのするところだが」として、遅ればせながら、日本神話学が比較学としての力をもつために民俗学のあり方を考え直したいと発言している。その意味では神話学との関係での高木と折口の関係は柳田と高木の関係と遠く離れたところにある訳ではない。彼らは広い意味で同じ時代を生きたのである。
 ともかく、高木が神話学研究にあたえた影響は大きかった。なによりも第五高等学校(熊本)の教え子の中に神話学を大成した松村武雄がいたことの意味は大きい。高木の遺志は松村によって成就されたのである。同じ教え子に大川周明がいたことも注意を引く。ただ注意しておきたいのは津田左右吉への影響である。津田は高木より三歳年上であるが、高木の『比較神話学』について「神代史中の物語を民間説話として解釈を試みた、まとまった著作に高木敏雄氏の比較神話学がある。多分それがこういう研究の最初の企てであったと思うから、特にここに記しておく」(津田全集別巻『神代史の新しい研究』一九一三)としている。前述のように津田は紀記神話はタカミムスヒの神格をふくめて、中国思想をベースとして机の上で虚構された政治神話にすぎないという立場をとっている。もちろん、そこには民間説話が記録されているが、それは神話ではなく、民間説話にすぎないというのが津田の決まり文句である。倭国神話には「民間説話の本質を有する宇宙生成物語が、少なくとも神代史の上に現れていない」という立論である8。津田が、その神話論の組み立て方において高木から大きな影響をうけていることは明らかである。
 たとえば高木を高く評価した羽仁五郎「神話学の課題」がその無内容な概念論にもかかわらず、批判をうけることがなかったことが示すように、現在でも歴史学の分野では高木の研究に対する評価は高い。しかし、高木が向きあった時代の困難さと、その誤りと不運を含めて、高木敏雄の仕事を本居・平田の産霊神学、そして近代の神話学の研究史の中でおさえておくことは必須の作業であると思われる。

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