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じぶり『熱風』にかいたかぐや姫論。「月の神話と竹」

ここは広瀬神社

 以下はスタジオじぶりの『熱風』という宣伝紙に書いたもの。12月号。「かぐや姫の物語」の特集である。

 私見では、『竹取物語』はよく知られている物語ですというのが、思いこみ。これが思いこみであるということが正確に、もっと早く伝えられればいいのだが。ヤマトのもっている物語を見直すために、ともかく見ておいた方がと思うのだが。

 とくに教師、歴史と文学の教師が、どうにかして子供たちに、この映画をみてもらうような動きをすることはできないのだろうか。歴史文化のなかにもう一度、文化を引き戻すということを考えないと、将来、困るのではないだろうか。人ごとでなく、文化・芸術との共同ということを教育・学術は考えなければならないのではないだろうか。そういう道を歩むことなしにはなにも生産的なものは生まれない。

 ともかく、歴史学をふくめた学術は「文化」のことをもっと考えた方がよいように思う。しかし、これは他人事ではない。学術に携わってきたものとしては、自己反省。

 しかし、ともかく、今日は飛鳥時代の通史に目処をつけなければならない。歳もとったのに、いま基礎構築をしているというのは申し訳ない。歴史の過去について何もしらずに(何も確認せずに)やってきたのであるということを実感している。

じぶり『熱風』にかいたかぐや姫論。「月の神話と竹」


 「かぐや姫の物語」の原作、『竹取物語』は平安時代の初めに作られた。それは天皇が主催する月明の冬の夜の舞踏会に「舞姫」として出仕させられる、成女式の年齢の少女たち(一二・三歳)の立場から書かれている。かぐや姫がミカドの許に召されるのは、まさにその舞踏会への動員の季節であって、かぐや姫は、出仕を嫌だといい、強制されるなら死んでしまうといった。『物語の中世』(講談社学術文庫)で書いたように、実際に「舞姫」に動員された少女の身分は中級貴族の娘たち。彼女らはしばしば出仕を拒否したり、直前に卒倒したりした。すでに王妃候補者が舞姫から王妃候補者がえらばれる時代ではなく、舞踏会への参加は、男たちの性的な視線の下で品定めされ、女房への道に進まされることを意味したから、彼女らもすべてを拒否し、「私は天女だ」と叫びだしたいときがあったに違いない。彼女らにとって『竹取物語』が物語の「はじめ」の位置にあったのは自然なことである。

 しかし、『竹取物語』はさらに深いものをもっていた。高畑勲監督の「かぐや姫の物語」は、「月」の視点から『竹取物語』を描くという、これまでとはまったく異なる発想でかぐや姫を描きなおし、それを明瞭に示した。そこにはたしかに「隠された物語」があるのである。私見では、その「隠された物語」は神話世界に直結している。そこでここでは、『竹取物語』を「月」と「竹」の神話という側面から説明してみたい。


かぐや姫の「罪」の原因となった月の女


 『古事記』『日本書紀』には月はあまりでてこない。しかし、それは月の神話が存在していなかったということではないと思う。『かぐや姫と王権神話』(洋泉社歴史新書y)で書いたことであるが、伊勢神宮の外宮の女神、トヨウケ(豊受)姫は月の女神であり、平安時代の宮廷の夜の祭りは基本的には彼女の降臨の下で営まれる月の祭りであった。それにもかかわらず、月の神話がなぜほとんど残っていないかというのは日本神話論の最大の謎である。鎌倉時代、いわゆる伊勢神道は外宮の神官たちの思想的運動から始まったが、彼らが挑んだのも、この問題であったように思う。『竹取物語』は、この謎に深く関わっている。

 「かぐや姫の物語」の筋は、月に憂愁に沈む女がおり、彼女の姿に惹かれたかぐや姫は、結果的に月世界最大のタブーをおかし、その罪によって地上に落とされたというものである。

 このプロットは高畑監督の独創ではあるが、空想ではない。益田勝実が論じているように、月にいる憂愁の仙女のイメージの原型は古くから中国で語られている姮娥(ルビ:こうが)にある。彼女は中国の英雄で強弓の達人として知られた羿(ルビ:げい)の妻であり、深く愛し合っていたが、結局、羿が月の女神・西王母から獲得した「不死の薬」を盗んで月に帰らざるをえなかったという。しかし、こうして月世界にもどった姮娥は夫と地上が忘れられず、月の都で永遠の憂愁の時を過ごしているというわけである。かぐや姫は、この姮娥の憂愁の姿にあこがれ、彼女に近寄りすぎたあまり、月世界にとって最大のタブーというべき姮娥の記憶を呼び覚ましてしまう。そして、自身「まつとしきかば、いまかえりこむ」という歌の記憶にとらわれ、その罪をつぐなうために、つらい運命をあたえられたというわけである。

中国の幻想文学と『竹取物語』

 このような天界の仙女の物語は、きわめて洗練された夢幻的な神仙文学として紀元前後から中国で大流行し、日本にも流入した。伊勢内宮のアマテラスや外宮のトヨウケ姫、さらに伊勢外宮と同体とされる大和広瀬神社のワカウカ姫など、日本の神々の中心に女神たちがいることは、その影響を抜きには考えられない。『竹取物語』も、中国の神仙文学の影響の下に作り出されたもので、いまでいえば、世界最先端のSF小説の続編を日本で作ってしまったとでもいえようか。しかし、中国の神仙文学はほとんどが『竹取物語』より短い短編であるから、むしろ『竹取物語』のほうがよくできていると、私は思う。

 こう考えると、「かぐや姫の物語」が、月の側から地球をみるという視点をとったのは正解であったと思う。そして、その独創は、月からきた王女かぐや姫が、地上での試練に耐えきれなくなって、みずから「助けて! もう死んでしまいたい」と通信を発するというプロットにある。

 それが感動的なのは、月の世界が「死の世界」であることが、アニメをみている私たちに徐々にわかってくるからである。そして、死の世界から来た少女が「死んでしまいたい」と心のなかで叫ぶことによって「生」を発見するという逆説に、我々が動かされるからである。

 さらに、私は、試写をみて、かぐや姫を迎えに月から降りてくる使者たちが奏でる音楽に驚いた。何かガムランの音楽という感じの明るいリズムである。彼らが「死」の世界の無表情と厳しさをもちながら、美しく、しかもなんとなく明るくとぼけているのがよいと思う。

 そして、この場面をみて、これが当たっているのではないかと本気で考えた。神話の時代の人々は、死の世界を、暗いものとはみていないのではないか。しかも、私たちは、その世界から呼びかけられることでしか、本当の「生」を知ることができない。しかし、それを知ったときにはもう間に合わないーー。これはいまも昔も同じである。

「太い竹に入って降臨すること」の意味



 さて、以上が「月」の話しであるが、「竹」の話しについては、最近、気がついたことを報告したい。写真は東北歴史博物館に展示されている会津大塚山古墳南棺に埋葬されていた割竹形木棺の模型である。形成期の前方後円墳では必ず使われているもので、7・8メートルもある大木を二つ割りにして、中をくりぬき、ちょうど人間が竹の節の間にいるような形にして葬る。この模型では灰色の人形が入っているが、実際には「殯(ルビ:もがり)」をへて清められた白骨だったはずで、この白さに清浄性を感じるのが人々の感性であった。古代の身分、氏姓(ルビ、うじかばね)の「姓(ルビ:かばね)」も、本来は骸(カバネ)のことで、白骨の清浄な魂魄になった人こそが高貴なカバネ身分をもつというのが、身分体系を表示する古墳の秩序の本質である。

 時代は下って一〇世紀の『大和物語』(一四七話)には、一人の女が二人の男の求婚をうけ、進退きわまって入水してしまい、それを追った男たちも水死してしまったという悲話がある。悲しんだ男たちの親は、女の塚墓の側に男たちを埋葬したが、片方の男の塚墓には、「くれ竹のよ長きを切りて狩衣・袴・烏帽子・帯とを入れて、弓・胡簶・太刀などを入れてぞ埋ずみける」という処置がされたという。ここにいう「くれ竹」とは、「呉竹」、つまり、中国南部を原産とするハチク(淡竹)のことで、大きいものは、直径一〇センチ、節間は四〇センチ、高さは二〇メートルにも及ぶ。「よ(節)長き」というから、その中でも大きなものなのであろう。それに衣類などを入れて、副葬したというわけである。

 これらは死者(あるいはその持ち物)が竹の節の中に入って昇天するという観念を示している。かぐや姫の降誕は、それとはちょうど反対に死の世界からの復活であるといえよう。私は、昔、『竹取物語』を読んだ人々は、そのことを知っていたのだと思う。

 『竹取物語』には、翁の歌として「くれ竹の世々の竹取 野山にも さやは侘びしきふしをのみみし」という歌が記録されている。これは『竹取物語』が、本来、歌物語であったことを示す証拠と評価される歌であるが、そこに「くれ竹」がでてくるのは太い竹と読まねばならない。私たちは「竹」のことを忘れているが、正倉院にも呉竹製のいくつかの宝物があることでわかるように、当時、竹は南アジアから伝わった万能の素材だったのである。

隼人の物語と広瀬野

 このような南アジア産の竹が、いつ日本に広がったか、植物学の結論はでていないようであるが、「纏向の日代の宮は(中略)竹の根の 根垂る宮」という『古事記』の歌謡は、三・四世紀の大和の纏向宮(ルビ:まきむくのみや)のそばには巨大な竹林があったという記憶を示すのかもしれない。そもそも、割竹形木棺がヤマトを発祥地とする前方後円墳に埋められるということは、竹の文化を抜きには考えられないだろう。そして、そうだとすると、それを持ち込んだのは、考古学の森浩一がいうように、南九州の隼人であったとしか考えられない。

 そして、隼人たちの竹のルーツは、列島ジャパネシアの南端、沖縄の島々、そして、台湾、フィリピン、雲南、インドネシアに広がる竹の文化圏につながる。実際、雲南の苗族の王は、河で洗濯をしていた女の両足の間を流れぬけた大竹の中から生まれたといい、台湾の東南部の蘭嶼島にすむタオ族には、大噴火と大津波の中でうち寄せられた大竹が割れて、中から人間の先祖がうまれたという神話がある。ここにかぐや姫の物語に反映した「竹」の物語の原像があるのである。『竹取物語』が中国の神仙思想の強い影響を受けていることは先述の通りであるが、その基層には、隼人たちを通じて南アジアとのつながりが流れていた。

 さて、同じく森によれば、隼人たちは大和国に移住してきていた。右の地図で示した奈良県の西部が彼らの移住地である。私は「かぐや姫の物語」に描かれた美しい山河と丘陵に、この地域、とくに馬見丘陵から生駒、そして生駒の谷を北へ向かって大阪や木津川方面へと抜けていく道の風景を思い起こした。隼人たちは、この地域で竹工芸を営み、その製品を朝廷におさめていたのである。その中心地が、現在でも「かぐや姫の里」として知られる広陵町のあたりで、そして、そこが、たしかに『竹取物語』の故地なのである。そこには讃岐神社があるが、竹取翁の名前の「讃岐造」は、それと関係がある。翁などの所属する忌部氏は、朝廷の祭器の資材や建築を担当していた氏族であるから、その縁で隼人たちと同じような仕事も行ったのであろう。

広瀬神社の月の女神

 そして、この忌部氏と関係の深かったと思われるのが、この地図の中央に位置する広瀬神社である。『かぐや姫と王権神話』で詳しく述べたように、かぐや姫の原像は、この広瀬神社の「大忌祭」に奉仕する「物忌女」にある。『万葉集』の歌から想像できる彼女らの姿は、何重にもなった青緑の竹珠の御統(環飾、ネックレース)を身にまとった少女の姿である。彼女らは、広瀬神社の「大忌祭」を前にして半年にも及ぶ長い潔斎の生活を送る。これは『竹取物語』の描く、天に帰る前の時期のかぐや姫の閉じ籠もりそのもののように思う。折口信夫が示唆しているように、竹の中に籠もるようにして清浄を維持する心意は、日本の「神道」の根本にすわっているもので、『竹取物語』はたしかにそれを表現しているのである。『竹取物語』を架空の物語と考えてはならないと思う。

 冒頭にふれたように、広瀬神社の祭神は女神ワカウカ姫であり、伊勢外宮と同体の月の女神である。奈良を好きな方なら、広瀬神社の祭神が月の女神であるというのは、すぐにわかるのではないだろうか。月は広瀬野に沈むのである。広瀬野の上、二上山にかかる月は『万葉集』にも歌われていて、よく知られている。また春日大社の由来を書いた絵巻の巻頭には広瀬神社近くの竹林が描かれ、そこに月の仙女が降臨している様子が描かれている。もう平安時代のことなので、彼女はご丁寧に十二単の女房装束を着ているが、しかし、本来の広瀬の月の女神は、より凄絶で原始的な畏怖すべき美しさをもつものであったろう。高畑監督の描くかぐや姫の激しさには十分な根拠がある。

「地球を外側からみる目」

 さて、こうして、「月」の物語の解説から初め、「竹」の神話の説明に入って、また「月」にたどり着いたことになる。謎解きは、ほかにもあるが、しかし、ここまででも、多くの人々が、「かぐや姫の物語」を通じて、はるか一〇〇〇年以上昔の民族的な文化の深層に目を注ぐ機縁になれば幸いである。

 最後に一言。高畑監督がいいたいのは、かぐや姫が自分で地球をえらび、苦しんで去ったのだということであろう。それは私たちの国の神話や物語の中に、地球を外側からみる視点があることの驚きでもあるのだろう。
現在は、この視点を日本列島のみでなく、太平洋の大きさにまで広げ、選び直しをなければならない時期である。その際、先にふれた、大噴火で大竹が割れて、その中から人間が生まれたという神話をもつ台湾南東の蘭嶼島が重要である。この島は火山島で、バシー海峡を隔ててフィリピン最北部の火山列島、バタン諸島につらなる。インドネシア、フィリピンからの竹の文化と神話が日本に伝わってくる上では、この離島の役割は不可欠のものであったろう。私たちの列島は南の火山と連なる火山列島なのである。

 いま、この蘭嶼島のタオ族の人々が、いつの間にか島に設置されていた放射性廃棄物の処理場におびやかされているという。私たちの列島、原発の大事故を起こしてしまった列島の海は、これらの島々に連なっている。地球を外側からみる視点を大事にするとすれば、生駒と広瀬野の美しい自然も、蘭嶼島の火山・海原も、どちらも『竹取物語』の故地であり、一つのものである。我々の運命は、竹の神話と文化を共有する、南の島々と一蓮托生なのである。最近、そんなことを考えている私には、映画の最後に流れる月からの使者たちの奏でる陽気な音楽が本当に南国の音楽に聞こえた。そしてその明るさに感動し、励まされた。

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