グレーバー『万物の黎明』について。読書ノート

グレーバー『万物の黎明』について。「人新世論から」
①人新世
 グレーバーは「完新世」という用語を使いますが、完新世(holocene)のholoは完全という意味で、人類優先的な世界観。これを人新世と呼ぶべき。人新世を現代に置く見解が強いが、人新世論は地質学からの問題提起で地質学的な時代として設定するとすると完新世に置き換えるべき。一万年、一万二〇〇〇年前、人類史で言えば中石器時代から始まった。地質学と人間科学の統合概念。
②人新世の始期とバルバロイの開始(モルガン)の一致
 人新世を中石器時代開始とすると、酒井さんの論題にあがっているモルガンの時代区分論が新たな意味をもつ。つまり大ざっぱにいって人新世の始期、一万年前とバルバロイの開始の一致。
 酒井さんの報告の論題となっているモルガンのsavage(私は野性と訳す)、barbarian、civilzation(文明)の段階論の評価が問題となるが、モルガンのいうバルバロイの時代は『古代社会』をよく読むと「異文化の時代」、端的に言えば「神話時代」と理解できる(「神話」「神殿」「人間化した神々」「霊の漠然たる認識をともなった自然力崇拝」「文明の発端」「不羈な想像力」などの記述)。モルガンの時代区分論にはヨーロッパ中心史観があるが(「この時代の社会の状態は後のギリシャおよびローマの著者などによって理解された」「ホメロス」)、それを批判の上で利用可能と考える。
③人類の類的性格と神話時代
 グレーバーは小規模集団の先行と累積・拡大を起点とする人類史把握に反対し、「人間は人類全体と共有された想像上の構造」の中で生きる傾向があるとする。これは非常に重要な指摘である。それはフォイエルバッハ・マルクスの用語で言えば人類の「類的本質」ということになる。このような類的感覚は、人類がいわゆる「野性の思考」、呪術的あるいは遊戯的な労働を発展させる中で、地球環境全域に広く生物学的に分布する中で獲得したものであろう。それを発達させる長い時代が「野性savageの時代」であったと考えるが、それはフレイザーの図式では「呪術の時代」にあたる。フレイザー、マルセル・モース、そしてレヴィ・ストロースの「野性の思考」とつながる呪術的労働の問題は、人間の生物的労働から、合目的的な具体的労働、技能的労働が分離し、生物的労働を抽象労働に転化する仮定である。これが長い「野性savageの時代」「呪術の時代」に実現した。
 そして神話の時代barbarianは、この人間の類的性格の自己像が独自化し、人間としての神々=神話を生み出した時代である。
 グレーバーは紀元前5000年以降の大規模な初源的都市の成立を、このような人間の類的本質が都市という形で可視化されたものだとした。宏大な領域に広がっていた人類の生存様式が縮小し、境界をもつなかで結晶し、都市に現出したものであって、そのような都市が王制や貴族制に先行するという大胆な見通しである。これは「原始的民主制」としてたとえばギリシャ史の太田秀通が強調していた問題であるが、この議論が新たな考古学的な実証と人類史の見通しの中で刷新された。
 ここで始めて自然の大規模な改変の動きが始動し、この地球の環境史的な変化・地質学的な変化が人新世の開始を告げる。社会分業の展開(鉱業・牧畜・農耕)が本格化し、王制と階級社会への動きが始動する。類的存在の都市における可視化がなければ、生業の自然的・地域的な相違はあっても社会分業にはならない。社会分業の中枢をなす精神労働と肉体労働の対立にはならない。
 この精神労働と肉体労働の対立を上から作りだしたのが神話である。神話の成立には異界の成立が前提になる。それは一方で人間活動の閉鎖化・領域化、その半面としての交易による他領域の「異界化」、他方で石器採掘からの鉱石の発見による地中世界の発見(金属)と暦と天文知識による天空世界の発見が前提となる。これによって世界像が全面的に変化し、歴史のスピードが速まる。
 グレーバーの議論で問題が残るとすると、経済構造決定論とはいわないが、社会変化決定論のようなニュアンスを感じる。呪術や神話についての諸理論との突き合わせの必要を感じる。

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