『火山列島の神話』序論

現在書いている『火山列島の神話―――倭国神話の至上神、タカミムスヒとカミムスヒ』 (仮題)という本の序論です。


序論として――民族主義のために
天壌無窮の神勅と昭和天皇の「人間宣言」
「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾、皇孫、就でまして治せ。行矣(さきくませ)。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」
(『日本書紀』神代、第九段、異書一)

現代語訳「葦原の広がる豊かな水の国は、私の子孫が王となるべき地である。お前は、皇孫として、そこに降っていって治めよ。祝福されて行け。天の後継者が隆盛することは、天地が窮まることがないのと同じであろう」
 これは『日本書紀』の「天孫降臨」条(第一の一書)に伝えられた、女神天照大神(アマテラス)の発したいわゆる天壌無窮の神勅である。アマテラスは、その孫の天津彦彦瓊々杵尊(ニニギ)が下界に下るにあたってこの神勅を与えた。天皇家は、この神勅をうけて、アマテラスの子孫、ニニギの子孫として万世一系の王統を維持し、「葦原の千五百秋の瑞穂の国」(日本)を統治してきたというのである。私は、これは『日本書紀』『古事記』が成立した段階ではれっきとした神話であり、神話である以上、一つの歴史文化として尊重されるべきものだと思う。神話時代の人々にとって「神話」は宇宙と人間の全体を理解するためにどうしても必要なものだったからである。
 ただし、この「神勅」は倭国神話の中心部分にあった訳ではない。それでは倭国神話の中心とは何かということは本書全体で説明することになるが、そうではあってもこの「神勅」が倭国神話の一部をなしていたことは事実なのである。
 現在、「天上無窮の神勅」といっても、ほとんどの人が読んだことはないかもしれない。しかし、これは明治国家の出発の時代から何度も繰り返して人々に告げられたものである。その最初は、一八七一年一一月の明治天皇の大嘗祭に際して発せられた太政官告諭の冒頭に「大嘗祭ノ儀ハ、天孫瓊々杵尊降臨ノ時、天祖天照大神詔シテ、豊葦原瑞穂国ハ吾御子ノ所知国ト封シ玉ヒ」とあることであろう。これは「天上無窮の神勅」そのものであり、神話の見方としてはアマテラス中心主義そのものである。そして、それ以降、一九四五年の対アジア・アメリカ戦争の終結に至るまで、これは繰り返された。もっとも明瞭なのは、一九三七年、日中戦争が始まる三ヶ月ほど前、文部省思想局が発行した『国体の本義』が、その冒頭「第一 大日本国体 一肇国」を「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給う。これ、我が万古不易の国体である」と始めていることであろう。傍点部の「皇祖の神勅」が右の「天壌無窮の神勅」である。
 『国体の本義』は続けて、「而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いている。而してそれは、国家の発展と共に彌々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我らは先ず我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いているかを知らねばならぬ」と説明する。「天壌と共に窮るところがない」とは「天上無窮」ということである。さらに続けて『国体の本義』は伊弉諾(イサナキ)・伊弉冉(イサナミ)の男女の神による国土造成神話を説明した後、この二神が「先づ大八洲を生み、次いで山川・草木・神々を生み、さらにこれらを統治せられる至高の神たる天照大神を生み給うた」としている。
 問題は、このような文脈で語られる「天壌無窮の神勅」を「神話」と呼ぶべきかどうかにある。私は、これは厳密には「神話」とよぶべきものではないと思う。もちろん、皇国史観*1の語るアマテラスが「天壌無窮の神勅」によって現人神たる天皇に国家を統治する権限をあたえたという内容は、形式的にみれば、本来の神話と同じものである。しかし私見では「神話」という文化は人類にとってきわめて大事なものであって、そうである以上、「神話」という言葉は厳密に神話時代に属するものに限定して使うべきものではないだろうか。近代社会には神話時代の社会意識や世界観が存在している訳ではない。実際に『国体の本義』は一部の学者によって構想され、執筆されたもので、どうしても「神話」という言葉を使うことが必要な場合は当時もいわれていたように「現代の神話」と呼ぶべきものであろう。それは明治国家によって強調され、一九四五年まで繰り返されることによって国民の常識となったという由来のものなのである。
 さて、よく知られているように、この「現代の神話」としての「天壌無窮の神勅」に「国体」の基礎をおく歴史観は、当時から皇国史観といわれていた。『国体の本義』は、この史観を国定の歴史思想としたものである。そして、これがいわば、「現代の神話」として、歴史としての近代に属するものであったことは、次に終戦の年の翌年一月に発せられた昭和天皇の詔書、いわゆる「人間宣言」によって確認されていることである。
「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」
 ここにいう「天皇は現御神(あきつみかみ)であり、日本民族は他民族に優越する世界支配の運命をもっている」という「架空ナル観念」が、以上にみてきたような『国体の本義』の述べた観念であることはいうまでもない。「架空ナル観念」とは作られた観念であるということである。それが「皇祖の神勅を奉ずる万世一系の天皇」自身によって否定されている以上、現在の日本人が、この皇国史観自体が作られたものであるとして魅力を感じないのはきわめて自然なことであろう。
 しかし、それで問題はすむのだろうか。私が問題としたいのは、こういうことを考える上で、そのすべての前提となる神話の理解そのものである。この列島に棲む民族、諸民族にとって、皇国史観の名のもとに遂行されたアジア太平洋戦争をどう考えるかについては、様々な意見がありうるであろう。しかし、ともかくも、ほとんどすべての国民が、この皇国史観を信じ、それによって戦争に行き、日本は他の国々に優越しているという観念に従って行動したのである。そうである以上、そこには、どういう民族的な責任が存在するのか、彼らが信じた神話とは、本当はどのようなものだったのかを正確にふり返ることは欠かすことができない。また私のように神話時代の神話そのものが人類文化にとってかけがえのないものであると考えない場合でも、神話の文化価値をどう考えるかは、現代を考えるにあたって欠くことができないのではないか。
本居宣長・平田篤胤と国民主義・民族主義
 以上、神話学、歴史神話学の学術内容からはやや離れたことを述べたが、これを述べざるをえなかったのは、神話研究においては、徳川時代に発展した「国学」といわれた学問、つまり本居宣長(1730~1801)と平田篤胤(1776~1843)の学問をどう読むかが根本的な問題だからである。いうまでもなく、「国学」は皇国史観が生まれる学術的な基礎となったが、しかし、本居・平田の学問自体は皇国史観とイコールではない。そして、私見では、そういう問題を超えて、本居・平田の学問の価値は高いのである。本書はそういう立場から、一度、倭国神話の研究を本居・平田段階に戻して再出発しようという提案である。
 そこで周知のことではあろうが、ここで簡単に彼らの学者としての履歴を紹介しておくことにしたい。まず本居は『万葉集』『源氏物語』を素材とする文学と文法・仮名遣いを明らかにした日本言語学の祖というべき人物であり、しかもその研究蓄積の上に『古事記』を研究し、日本の人文学の全体を学問というにふさわしいレヴェルのものにたかめた人物である。安丸良夫によれば、この出発点から、本居の学問の背景には儒教的な教条に対抗して、「人の実情」「真実の性情」をこそ尊重せよという伊勢松坂の町人としての人生観があったという(安丸一九九二)。本居はそういう立場から儒教・道教・仏教などの中国思想の影響を「唐心」と称し、『古事記』はそこから自由であるとして、その注釈に集中したのである。
 これに対して平田篤胤は本居より四〇歳以上も若く、秋田藩を脱藩して江戸にでて苦学して学塾の主となった人物である。平田はその学問を荻生徂徠の古学や老荘思想の勉学から始めた関係で、道教の評価の点では本居とは異なっていた。しかし、本居の『古事記伝』の衝撃は大きく、それを導きとして自己の学問を作りだし、本居の思想を幕末社会に大きく広げていく役割を果たした。平田というと狂信的な攘夷主義者とされることが多いが、宮地正人は、平田は、幕末期の学者の中でも視野が広く見識もある人物で、民衆的な「草莽」の運動に大きな影響をあたえ、植民地化の危機を見通す上で大事な役割をになった民族主義思想であるとしている(宮地正人『明治維新変革史』)。また島崎藤村の『夜明け前』が示すように、平田の神道は(名目は別として)実際上は明治国家から忌避される運命にあったこともよく知られている。
 本居と平田は、このような時代に神話と古典の詳細な点検にもとづいてほぼ初めて学術としての神学を組み上げた。本居は「うひ山ぶみ」という初学者のための学問のすすめというべき文章の出だしで「神代紀をむねとたてて、道をもはらと学ぶ有り。これを神学と言ひ、その人を神道者という」と述べているが、神学とは神道信仰に根を置く学問である。ヨーロッパにおいても東アジアにおいても近代的な学術は神学、そして民族言語の言語学的な研究から始まったが、本居・平田の学問も同じ位置にある。本居は『古事記伝』(巻一)「古記典等総論」で『古事記』について「此記は、いさゝかもさかしらを加へずて、古より云伝たるまゝにきされたれば、その意も事も言も相称て、皆上代の実なり。これもはら古の語言を主としたるが故ぞかし」とするのは『古事記』の記述言語は古の和語であって、それ故に、それを上代の「眞実」と受けとめて学べとしている。
 よく知られているように、本居は『古事記』の記載をすべて文字のままに事実として信ぜよとする。それは『古事記』を神道の「聖典」として扱えという宗教者としての信念でもあるが、さらには『古事記』は「古より云伝たるまゝ」のものと信じて分析せよという神学の方法論でもあった。もちろん、それは日本国は万世一系の天皇が「現人神」として存在するなどという考え方をともなっており、信仰や学術の問題であると同時に本居の政治的な信念でもあった。それは国民主義(ナシヨナリズム)の思想、あるいは民族主義(エスニシズム)の思想として徳川社会の知識人に共通して抱かれていたものである。そして彼らの思想は、日本が欧米資本主義列強による植民地化の危機におかれるなかでさらに政治性を強めていき、それが皇国史観の基礎の一つとなった。しかし、だからといって彼らの国民主義(ナシヨナリズム)の思想、あるいは民族主義(エスニシズム)の思想の独自の価値を否定するべきではない。
 率直にいって、この国の知識人の中には、アジア太平洋戦争の後の「アメリカ化」の中で、「民族」という言葉を一つのタブーであるかのように扱う人々、いわば「民族虚無主義」に囚われた人々がいまだに多い。しかし、少なくとも歴史学にとって「民族=ethnicity」あるいは「民族主義=ethnicism」を思考の基礎にすえることはどうしても必要なことである。それは「国民=nationality」「国民主義=nationalism」、そして「国家=state」「国家主義=statism」とは違うことである。国家主義は国家を自律的な価値とするもので、そこで前提とされるのは国家機構を直接に行使する人々の利害となりがちである。たしかに国家は一つの政治的団体として、他の国家に対して団体的責任をもっている。しかし、政治団体としての国家は国民の法的契約によって成立しているのであって、国家はあくまでも作られたものである。また「国民」は国籍によって決められる法律上の観念であって、それはどうしても国家の目を通して世界をみてしまう。それは国民の外側にいる他国籍の人々、あるいは国民の中での弱い立場に人々を実質的に排除しがちである。国家という視野に閉じ込められた集団意識はどうしても利己主義・排外主義になりがちである。そうではなく、人類の中にある歴史的に作られてきた多様性自体に向き合って、同じ人間だというレヴェルでその相違を認識するためには「民族=ethnicity」という考え方をするほかない。そうでないと、「人種=race」という言葉を使いがちになるが、自然人類学が明瞭に結論しているように人間を生物学的に区別する「人種」という用語を使うことは適当ではない。「人種」というのはただの見かけで人間を区別する言葉であって、これを使うことは「人種主義」を必然的に導く。世界的にも必要なのはインター・ナショナル=internatinal(国家間・国民間関係)ではなく、より開かれた民族のレヴェル、インター・エスニック=interethnicのレヴェルであろう。もちろん、「国民」「国家」の利害というものを無視せよというのではないが、少なくとも歴史学の思考の基礎は「民族=ethnicity」におかれるべきものと思う。
 本居・平田が直面した日本が欧米の資本主義列強による植民地化の危機という状況、そしてその中で日本が「脱亜」の道を突き進んだという歴史は、現在まで切れ目なしに連続しているのではないか。そしてそうである以上、私は彼らの「民族主義」「国民主義」には受け継ぐべきものがあるのではないかと考える。
 しかし、それを問うことは徳川時代の思想史・学術史の研究者の仕事であって、ここでの仕事ではない。私の仕事は彼らの仕事をどう読むか、そのうちの何を引き継ぐべきであって、何を引き継げないかということそれ自体である。これは本居と平田を出発点として積み重ねられてきた膨大な倭国神話の研究を無視しようというのではない。しかし、現在の研究には本居の『古事記伝』、平田の『古史伝』の誤りに囚われているところと、逆にその仕事の引き継ぐべきものを見逃しているところの両方があるのではないかと思う。倭国神話の研究は、それを正確に確認しながら進めるべきなのではないか。本書は、そういう考え方に立って、倭国神話論上の重要な問題を点検するたびに、『古事記伝』と『古史伝』の記述を、相互の相違をふくめて詳細に点検していく予定である。
 
倭国神話のあらすじとタカミムスヒ・アマテラス・・・・本居の見解
 本居と平田の仕事で何よりも引き継ぐべきこと、彼等が、倭国神話の民族的な神々のトップにはタカミムスヒ――漢字表記では高御産巣日または高皇産霊――という神がいたとしたことである。この神は、『古事記』の冒頭に、次のように登場する神である。
「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神。この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき」
現代語訳。天地が始めて発生したとき、高天原に成った神の名は、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神であった。この三柱の神は、みな独神と成られて、身を隠された)
 「天地初発の時、高天原に成りませる神」というのは天地の初発=開闢のときの神、つまりこの世界の創造神である。これらの(1)天御中主(アマノミナカヌシ)神、(2)高御産巣日(タカミムスヒ)神、(3)神産巣日(カミムスヒ)神の三柱の神は、『古事記』序文でも天地が形成される前の混沌から初めて発生して「造化の首」(創造の最初)となった神だとされている。しかし、この神がどういう神かは一切説明がなく、この文章はたいへんに謎めいたものである。この謎がどう解かれたか、どう解くべきかについては、後に詳しく解説することになるが、本居は、最初にこれを読み抜いて、倭国神話の至高神はその二番目に登場するタカミムスヒであるという不滅の学説を組み上げたのである。
 しかし、残念ながら、現代の日本では、タカミムスヒという神の名を知っている人はほとんどいない。これはきわめて奇妙なことである。つまり、もし本居と平田のいうことが正しいとすれば、日本民族は民族の神話の至上神の名前さえ知らないという民族、歴史を忘れた民族、神話なき民族であることになる。なぜこういうことになったかといえば、それは単純な話で、それは前記の『国体の本義』がタカミムスヒを無視したことにある。『国体の本義』は「天地初めて発りし時」に始まる『古事記』冒頭節を一応は引用したものの、タカミムスヒについて一切ふれようとしなかった。アジア太平洋戦争において国民の必読書とされ、そのイデオロギーをもって人々が戦争を戦った『国体の本義』で、タカミムスヒはふれられず、もっぱらアマテラスのみが語られたのであるから、タカミムスヒが忘れられたのは自然なことであった。
 この意味で、本居・平田の学説の点検の中心はタカミムスヒの問題におかれることになる。本居がそれをもっとも明瞭に説明したのは次の『古事記伝』の一節であろう。
世間にありとあることは、此天地を始めて万の物も事業も悉に皆、この二柱の産巣日大御神の産霊に資て成出るものなり【いで其事の、顕れて物に見えたる跡をもって一つ二ついわば、①まづ伊弉那岐神・伊邪那美神の、国土・万物をも神等をも生成賜へるその初は、天神の証命に由れる。その天神と申すは、此にみえたる五柱の神たちなり。②又天照大御神の、天石屋に刺隠坐し時も、御孫命の天降坐むとするによりて、此国平つべき神を遣す時も、其事思慮給ひし思金神は此神の御子なり。③又此国を造固め給ひし少名毘古那神も、此神の御子なり。④又忍穂耳命の御合坐て、御孫命を生奉給ひし豊秋津師(トヨアキツシ)比売も、此神の御娘なり。⑤又此国の荒ぶる神等を言向しも、御孫命の天降坐しも、皆此神の詔命に由れり。大かた是らを以て、世に諸の物類も事業も成るは、みな此神の産霊の御徳なることを考へ知べし】
『古事記伝』(三巻一三葉)
 簡単に解説すると、宣長は、世間にある「万の物」(物体)も「事業」(歴史)もすべてタカミムスヒの「産霊(むすひ)」の力によってなったという。この「産霊(むすひ)」とは後に説明するように本居の神学の基本概念で「生成の霊威」という意味であって、この「生成」には生命の生成というニュアンスが強いが、しかし、本居はそれを世界の生成と歴史の「事業」の全体に拡張している。つまり本居は、ムスヒ神の事業を「顕れて物に見えたる跡」(実現された物(もの)と事(こと))によって説明すればとして、倭国神話から五つの物語を取りあげて説明している。上記の引用に①~⑤とした物語であるが、①は、伊弉那岐神・伊邪那美神が国土・万物と神々を生み出したのは(天浮橋に降りよという)「天神の証命」によるが、この天神の中心はタカミムスヒであったという物語である。②はアマテラスが天の石屋戸に籠もった時も、ニニギを天降らせるために、葦原中国を平定するときも、それを差配したのは、タカミムスヒの息子神である思金神であったという物語であり、③では大国主命と一緒に国作りに動いたスクナヒコナもタカミムスヒの子であったという物語、④ではタカミムスヒの娘の豊秋津師比売はアマテラスとスサノヲの姉弟婚から生まれた男子(忍穂耳命)との間に霧島に降臨した天孫ニニギを産んだといい、⑤では葦原中国の荒ぶる神を抑えこみ、天孫降臨が行われたこと自体が「此神の詔命」、タカミムスヒの詔命によるといわれている。
 そして引用の文末の傍点部に「大かた是らを以て、世に諸の物類も事業も成るは、みな此神の産霊の御徳なることを考へ知べし」とあって、ようするに世界の万物と諸事業の生成は、すべてタカミムスヒ(産巣日大御神)の「産霊」によるというのが結論である。前述のように、『日本書紀』は「国譲」「天孫降臨」を通じてタカミムスヒを至上神として描き出しているのに対して『古事記』を読んでみれば誰でもわかるように、『古事記』では全体としてはアマテラスが目立ち、タカミムスヒはその影に隠れたようにみえる。しかし、本居は、『古事記』をその筋を追って詳細に読み、全体を見通してみると、実際にはタカミムスヒの位置が大きいという。
 それはこの宣長の示唆にしたがって『古事記』の神代の段を読んでいけば、誰でも理解できることであるが、しかし、それは今だからいえることであって、本居はその文学者としての感覚と能力によって『古事記』の全体のイメージを確保し、さらに『古事記』冒頭の造化三神の部分を徹底的に読み込むことによって、初めてこのような『古事記』の読みに到達したのである。それに対してアマテラスは、造化三神の記述のずっと後に登場する。つまり、『古事記』では、造化三神の次ぎには、(4)宇摩志阿斯訶備比古遲(ウマシアシカビヒコヂ)神、(5)天之常立(アメノトコタチ)神、(6)国之常立(クニノトコタチ)神、(7)豊雲野(トヨクモノ)神の四神が登場し、さらに(8)宇比地邇(ウヒヂニ)神、(9)妹須比智邇(イモスヒヂニ)神以下の四組のペアの神がくる。伊邪那岐(イザナキ)神、妹伊邪那美(イモイザナミ)神は、その後に登場する。
 松村武雄がいうように、造化三神から(9)までの神々とイサナキ・イサナミの神は系列の違う相互に独立したものである(松村武雄『日本神話の研究』②一三七頁、以下「松村②一三七頁」などと表示する)。つまり、よく知られているように、イザナキ・イザナミは、「天の浮橋」に立って「天の沼矛」でどろどろした海をかき回してオノゴロ島という島を作り、その上に天から降り立って性交して国土や神々を産んだと始まる。イサナキ・イサナミの神もタカミムスヒなどの造化三神と同様に、世界の創造神として行動しているのである。もちろん、『古事記』はイサナキ・イサナミは「天神」の指令によってこの大地の創造を行ったのだとはするが、それは後付けの説明である。そして、イサナキ・イサナミの物語は続いて地獄と天界そのものを生み出していく。つまりイサナミは国土の神々の出産の産褥で死し、それを嘆いたイサナキが黄泉国までイサナミを追っていき、死の穢れに接する。そして地上に還ったイサナキはその穢れから天照大神・月読命・須佐之男命の三貴神を産み出す。この物語はまとまった宇宙創成の物語であって、それとしてタカミムスヒ・カミムスヒの神話とは区別すべきものである。
 『古事記』の物語は、さらに複雑な構成をもっている。つまり今度は一転して神話の主人公はスサノヲであるかのように展開する。母を亡くしたスサノヲは父を憎み、姉のアマテラスを頼って天に登るのであるが、結局、姉とも喧嘩をし、高天原で乱暴をする。そしてそれに怒ったアマテラスは岩屋戸に籠り、スサノヲは神々によって天界からの追放される。スサノヲは出雲に降り、これが須佐之男命の子の大穴持(オホナムチ)命(大国主命)が葦原中国の王者となるという、いわゆる出雲神話に続いていくのである。そして、その上でさらに逆転が起こって、天の神々がこのオホアナムチから葦原中国を取り戻し、譲り受けるというのが、「国譲」といわれる神話であり、その後に、天神の命令によって、皇孫天津彦彦瓊々杵尊が日向の高千穂峯に降臨して、天皇家の始祖神となったというのが、「天孫降臨」神話であり、日向から神イワレヒコ(神武)がヤマトを征服するというのが「神武東征」神話である。イサナキ・イサナミ神話から、出雲神話、「国譲」から「天孫降臨」という流れである(なおこれに「神武東征」神話が続くことはいうまでもない)。
 本居は、この『古事記』の複雑な構成にまどわされることなく、その基底には至上神としてのタカミムスヒがいると論定した。これは本書の記述のすべての基礎として確認すべきものであるが、ここで、これを冒頭にふれた『日本書紀』(天孫降臨段)異書一にいうアマテラスの「天壌無窮の神勅」に戻って再確認しておきたい。
 この「天壌無窮の神勅」は、天孫降臨神話においてアマテラスが降臨するニニギにあたえたものである。しかし、『古事記』『日本書紀』全体では天孫降臨を伝える詞章は六箇所あり、そのうちでアマテラス一人がニニギに指令するという形式はこの「天壌無窮の神勅」のみである。まず『日本書紀』の本文(天孫降臨段)における神話の司令神は「国譲」から「天孫降臨」まで一貫してタカミムスヒただ一人であり、この段の『書紀』の異書のうち天壌無窮の神勅のような形式はほかにない。『書紀』(異書一)の天壌無窮の神勅にもっとも似ているのは『古事記』で、『古事記』では天孫降臨の司令神は「天照大御神・高木神」とされ、アマテラスは高木神(高御産巣日神の改称)と並んでいるものの、司令神のトップにある。
 これはタカミムスヒが前述のように造化三神である以上、『書紀』(異書一)と『古事記』編纂に際してタカミムスヒとアマテラスの順序や表記について一種の細工がされたことを示している。『書紀』本文のようにタカミムスヒが天孫降臨の司令神であって、アマテラスが天孫降臨の司令神であるという詞章の成立は遅いのである。『国体の本義』は、この問題の多い「天壌無窮の神勅」のみを取りあげて、アマテラスが天孫降臨の司令神であるという物語を作ったことになる。
国家神アマテラスと民族神タカミムスヒ――産霊神道の二重性 
 倭国神話の至高神はアマテラスではないという主張は、実は本居独自の見解ではなく、まったく別の形ではあるが、きわめて古くより存在した。しかも注意しておくべきなのは倭国神話の至高神はアマテラスではないという考え方は、伊勢神宮の中で始まったことである。つまり一二世紀以降に発達した伊勢神道は伊勢外宮を中心に展開したものであるが、そこでは神話の至高神は造化三神トップに登場する天御中主(アマノミナカヌシ)であるという意見が強力に主張された。天御中主(アマノミナカヌシ)は外宮の神である豊受姫大神と同体であって、よって月神でもあるとされて多くの信仰を集めた*2。そしてそれを受け継いだ足利時代の吉田神道においても、徳川時代の垂加神道においても同じような主張は繰り返されている。これらは神話・神道の中心神は天御中主(アマノミナカヌシ)であるという点で大きく共通している。そして天御中主は『古事記』では造化三神の次ぎの宇摩志阿斯訶備比古遲(ウマシアシカビヒコヂ)神、天之常立(アメノトコタチ)神に続いて登場する国之常立(クニノトコタチ)神としばしば同じ神であるとされ、天御中主は宇宙の神、国之常立(クニノトコタチ)神は日本の神として強い信仰を集めた。一二世紀から徳川時代末まで、むしろ神道にとってはこちらこそが長い伝統であったというのが実際である。ようするに日本神道においてもっとも伝統的であった神道は、この天御中主(アマノミナカヌシ)と国之常立(クニノトコタチ)神を一体視する考え方をふくめて、「天御中主神道」というべきものであったのである。
 これに対して、前述のように本居は神話の至高神を造化三神のトップのアマノミナカヌシではなく、二番目のタカミムスヒとした。これは奇妙なようにもみえるが、そもそもアマノミナカヌシという神名は『古事記』の冒頭と同文のものが『書紀』(一段異書四)にみえるものの、ほかには『古事記』序に名前だけがみえるだけの神である。またそれと同体とされた国常立(クニノトコタチ)尊も『日本書紀』『古事記』の冒頭部に登場するだけの、いわば神学的教理から演繹されただけの神で、神社もなく実際の神話信仰をもった神ではない。『日本書紀』『古事記』の神話を分析して神道学を学術的に組み立てようとする場合には、本居がしたように、アマノミナカヌシやクニノトコタチを脇に置くのが正しかったのは明らかである。もちろん、それは本居のいうことにすべて賛成であるということではない。アマノミナカヌシについては平田は主著『古史伝』(一段九八~一〇〇頁)において「無始より坐せば、最第一の神に坐す」神であるとして『老子』と道教神学によって説明している*3。そもそも『古事記』の編者の太安万侶は道教の深い教養をもっていたから(福永『道教と古代日本』人文書院、一九八七)、私はこの平田の見解が正当であろうと考えている。
 本居が、天御中主神道が伊勢神道の時代から道教や儒教・仏教の強い影響をうけていたことをもって、その教説は「唐心」による「妄説」であるとし、アマノミナカヌシは形式的に据えられた「よしもなき神」にすぎないとまでいうのは行き過ぎであろう(「伊勢二宮さき竹の弁」)。
 しかし、本居のいうように倭国神話の内容をこの神から解くことができないことは明らかであって、本居の神学とそれを受け継いだ神道が、高皇産霊・神皇産霊の神名の本質をなす「産霊」の概念を中心に組み立てられることとなったのは妥当なことであったろう。私は、それを重視して、彼らの開いた神道を産霊神道*4、その神学を産霊神学と呼びたいと思う。なおこの「産霊」という神観念の内容については、すぐに詳しくみるが、本居はムスヒの「ムス」は「苔のムス」とか「ムスコ」などという場合の成長の意味のムスであり、「ヒ」は「霊」という意味で、一言でいえば、ムスヒとは「生成する霊威」であると定義している。本居は、この産霊=ムスヒが、この列島の「万の物」(自然)と「事業」(歴史)を生成させたという訳である。本居の神道説を産霊神道と呼ぶ理由である(普通、本居と平田の神道は「復古神道」と呼ばれるが、これは以上のように本居・平田の学説の内容をむしろ「天御中主神道」の伝統を否定するものであった事情を十分に表現するものではなく、学術的というよりも若干の政治的なヴァイアスがある)。
 このように日本の神道の伝統においては天御中主神道が本居によって産霊神道に組み替えられたというのが全体的な流れである。これはアマテラスが正真正銘の倭国神話の至高神であるという考え方は、明治国家に始まり、『国体の本義』で終わった、いわゆる国家神道に独特なきわめて短期間の非伝統的な考え方であったのである。これは本書が全体として提出する倭国神話と神道の検討において大きな前提となることである。
 もちろん、本居はアマテラスを無視していたのではない。本居は伊勢松坂の富裕な町医者として伊勢内宮のアマテラスに対する強い信仰をもっていた。よく知られているように徳川時代までは伊勢神宮の信仰と運営の中心はむしろ外宮にあったが、徳川時代、尊王論との関係で徐々に天皇家の祖神としてのアマテラスという信仰が強まり、アマテラス中心主義は強固なものとなり、それに対応してアマテラスを祭る内宮の権威が上昇していった。本居は勤王論者である町人の立場から徳川幕府の国家社会の現実を冷静にみつめていたが、そういう立場にとってアマテラスが国家の最高神であることは前提であった。尊王論は、徳川幕府の権威を相対化して考える人々にとっては当然の教養であった。たとえば、本居はその神学を手短に説いた『玉くしげ』では「(アマテラスを)ただ本朝の大祖にして、此土にまし々々し神人の如くに説きなして天津日にあらざるやうに申す」のは間違いであり、アマテラスは神話がいうままの太陽そのもの、太陽の姿をした精霊であると論じている。そしてそれが皇孫に宿り、「天壌無窮の神勅」のままに太陽=アマテラスの皇統が「現に違(たが)はせ給わざる」ものとして存在するという。そして「本朝は、天照大御神の御本国、その皇統のしろしめす御国にして萬国の元本大宗たる国」であるというのが本居の立場である。
 この限りでは、これは皇国史観の見方と同じようにみえる。しかし、問題はその先にあった。つまり本居は、それは「表」のことであって、前述のようにその背後ではつねにタカミムスヒが「万の物」と「事業」(歴史)を動かしているという。『古事記伝』(一三巻六丁)は、それを「天照大御神は表にして、高御産巣日神は裏なるが如くなればなり」と説明している。この「アマテラス―表」「タカミムスヒ―裏」という対比において、本居は「裏」のタカミムスヒこそ民族にとっての普遍的な意味があると論ずる。これが宗教としては、国家神としてのアマテラスをもっぱら持ち上げるようというものでないことはいうまでもない。それをよく示すのが『古事記伝』の次の一節である。
高御産巣日神は、天地の初発の時より高天原に成坐して、世に所有る物も事も生成るは、悉く此神の産霊の功徳によるが故に(中略)皇御孫命の遠皇祖とも崇奉給ふなり、此神は皇孫命の皇祖なるのみに非ず、凡て萬姓・萬物・萬事の御祖に坐ますなり、天照大御神は然らず、ただ皇孫命の顕皇祖(うつしみおや)に坐なり、此けじめをよく辨奉るべし(『古事記伝』一三巻六丁)。
 要約すれば、アマテラスは「ただ」天皇の祖先神であるのに対して、タカミムスヒは「萬姓の御祖」、つまり武士から庶民までの諸身分の祖先神である。本居は天皇家の皇祖神としてのアマテラスと民族の祖神としてのタカミムスヒを区別する。もちろん、民族の祖神タカミムスヒは天皇の皇祖神と一致するのであるが、アマテラスは天皇の「顕皇祖(うつしみおや)」として国家神であるが、タカミムスヒの「産霊の功徳」は「萬姓の御祖」の祖先神である立場からのものであって民族神であるということになる。タカミムスヒは「表」の世界では見えない。しかし、本居は、タカミムスヒこそがすべての人間(萬姓)、すべての物(萬物)・すべての事(事業)の根源である。そしてこのケジメにおいて根元にあるものは「裏」の世界だというのである。「表―裏」というと誤解を呼ぶ恐れもあるが、本居はそれを「顕事(あらわごと)」と「幽事(かみごと)」とも言いなおしている。『玉くしげ』は「幽事」は人形遣いそのものであるが、「顕事(あらわごと)」はその人形の首や手足が動くという点に「差別(ケジメ)」があるのだという。「顕事(あらわごと)とても畢竟は幽事(かみごと)の外ならず」、「かくてその人形の色々とはたらくも、実は是も人(人形遣い――筆者注)のつかふによる」。「幽事(かみごと)」を統括する民族の神タカミムスヒこそが、アマテラスを含むすべての「顕事(あらわごと)」を動かす人形遣いであるというのである。
 こういう立場から、本居は人々に、この民族の神タカミムスヒの「産霊(むすひ)の功徳」を信仰せよという。このように本居の神学の本質は、アマテラスを中心とする国家神学ではなく、タカミムスヒを中心とする民族神学なのである。
 平田篤胤はこの民族の神の観念をさらに具体的なものとしていった。もちろん平田はアマノミナカヌシを至上神とする議論を展開したが、平田の意図は「産霊の御徳、申すも更なる御事じゃに依て、(タカミムスヒをー筆者注)有が中にも仰ぎ奉るべく」「神国に生まれて神の御末とある、この御国の人のよく弁へて齋き奉らぬと申すはあまりと云へば不正なこと」という主著『古道大意』の一節の観点を維持していたものと考える。平田の学説が極端なナショナリズムや日本自尊の心情を含む奇矯なものであることはどの著書を読んでも一読明らかなことであって、現代人が違和感をもつことはことあたらしくいう必要もないことである。
 しかし、宮地正人の再評価によって、平田の民族主義はその時代において大きな歴史的意義をもったことはすでに明らかになっている。私が、その上に平田の独自なところとして確認したいのは、このようにムスヒに対する民族的信仰を、さらに『老子』や道教教典に結びつけ、日本の民族的信仰を東アジア思想との関係で考えようとしたことにある。それは当時の段階としてはきわめて貴重な試みであったと思う。平田は道教経典についても知識が深く、晩年になるに従って老荘思想と道教に染まっていった(坂出祥伸『江戸期の道教崇拝者たち』二〇一五、汲古書院)。これはいわば日本ナショナリズムから一種のアジア主義の思想への接近であって、そこには民族主義的な思想の自然な展開であるというべき要素がある。
タカミムスヒ研究と神道史学――折口信夫と三品彰英
 これは端的にいえば、本居・平田の学問との関係で続いてきた神話や神道史*5にかかわる学問の流れを重視するということである。その結果、本書では柳田国男・折口信夫・三品彰英・西田長男・筑紫申真・西宮一民・松前健・岡田精司・中村啓信などの広い意味で神道史・神道学の研究者、あるいはあえて大学名をあげれば多くは国学院大学、皇学館大学に関係した人々の神話研究への依拠が自然に増えていく結果となった。もちろん、これらの人々の間でも研究方法は大きく異なっているが、しかし、本居・平田の産霊神学の業績を熟知し、研究の枠組みとして前提としているという点で、これらの人々は大きな共通点をもっている。
 これらの人々の中で産霊神学のタカミムスヒ論を引き継ぐ上で大きな役割を果たしたのは折口信夫と三品彰英の二人である。まず折口(1887―1953年)は柳田国男につぐ傑出した民俗学者であるが、その自己意識はあくまでも神道学者であり、その立場から一貫してタカミムスヒという神の性格を問い続けた。折口はアジア・アメリカ戦争の前はタカミムスヒは至上神の神格を万物と人間に「結ぶ」神であるという理解をとっていたが、そこでは実質上、至上神は皇祖神アマテラスとされていた。このタカミムスヒが「結ぶ」神であるという議論はまったく根拠を欠いたものではないが、戦後、皇国史観によるアマテラス絶対視に、実際上荷担したことを反省する中で、折口はタカミムスヒこそが本来の至上神として男性太陽神であった、あるいは「天変地妖」の神であったなどという議論に転じたのである。戦後の国学院大学で折口の影響をうけた筑紫・松前・岡田・中村などは、この折口の新しいタカミムスヒ論に影響をうけて大きな仕事をした。一九七〇年に松前健「大嘗祭と紀記神話」(一九七〇年一月)・岡田精司「古代王権と太陽神」(一九七〇年四月一日)が発表され、それに上田正昭『日本神話』(一九七〇年四月二五日)が続いた。これによってタカミムスヒがアマテラス以前の神話の至上神であることが神話論として確定したのである。これらは戦後の学説展開に関わるので、後に本論第二部において詳しく述べることとする。 
 これに対して三品彰英(1902―1971年)は戦前に京都帝国大学で『国体の本義』の作成に深く関わった西田直二郎の指導の下にあったいわゆる「京都学派」の一人である(上記の人々のうち、ほかに京大に関係しているのは一九四六年に神宮皇學館から京大に転入学した西宮一民(後に神宮皇學館学長)だけとなる)。その仕事は神話学のみでなく、考古学・民俗学・文化人類学などに及び、とくに韓国史に造詣が深く、日韓関係史、韓国史料の考証などの分野でも仕事を残した研究者である*6。
 三品の研究は一九三四年に発表された「天孫降臨神話異伝攷」(『歴史と地理』三三巻五号、一九三四)から始まった。この論文は題名が示すように『日本書紀』『古事記』の天孫降臨神話の所伝を図■のように一覧表にした上で、天孫降臨神話のテキストの成立順序を推定したものである。つまり右端の二つはタカミムスヒが司令神として真床覆衾をまとったニニギを降下させて薩摩の吾田の神の娘と聖婚するという単純な話であるが、それに対して、左端がアマテラスの「天壌無窮の神勅」(『書紀』異書一)であって、ここではアマテラス一神のみが司令神として登場するようになっている。両者の中間にあるのが『書紀』(異書二)と『古事記』であって、前者では高皇産霊と天照大神、後者では天照大御神と高木神(タカミムスヒの改称)となっている。アマテラスが先になっている点で『古事記』の方が「天壌無窮の神勅」に近いことになる。ようするに、右側から左にかけて徐々に話は複雑になっていって話題が加上され、「随伴者」「神器」「神勅」、などの項目が加わっていき、徐々にその成立年代は新しくなっている。三品は、『日本書紀』『古事記』の記載を比較しタカミムスヒが国家神アマテラスの裏側にいる民族の祖神であるという本居・平田の見解を、テキストの成立順序という否定しがたい文献学的な方法で推論したことにある。
ここに天孫降臨神話の三品彰英図)
 ただ、三品はタカミムスヒからアマテラスへの変化を国家意識、国体的観念の増進の動きと評価した。「次から次へと一異伝毎に、国家的精神の表示が深められて行ったところにこそ、我が国家発展の力強き精神を感得せざるをえない」。その「国家意識の最も顕著に表示されている部分」こそが「天上無窮の神勅」であり、「国家讃美の史観を誘導せしめずにおかない」(旧三九九~四〇二)という。こういう立場にとっては右の表の右側にでる天孫ニニギが「真床覆衾」にくるまれた嬰児の姿で描くような「民間伝承的な内容」が排除されて消失していくのは、神話が次第に国家の歴史らしく整備されていく過程であるということになる。これは本居・平田がアマテラスとタカミムスヒの関係を裏と表、民族神と国家神の二重構造と考え、アマテラスとタカミムスヒの併存をこそ重視していたのとは大きく異なっている。端的にいえば、これは当時の三品の政治的信念が国家主義(スタティズム)、「皇国史観」の立場にあったことを示している。実は三品の恩師は『国体の本義』の作成に深く関わった京都大学教授西田直二郎であった。『国体の本義』は本居・平田以来のタカミムスヒに独自の位置をあたえた神道神学の道から外れて、倭国神話の至上神をアマテラス一本に整理してしまったが、そこにはアマテラスにこそ「我が国家発展の力強き精神を感得する」という三品の議論が西田を通じて入り込んでいた可能性もあるだろう。
 ただ、一九四三年に発行した『日鮮神話伝説の研究』に右の「天孫降臨神話異伝攷」を「記紀神話異伝研究の一齣」と解題して加筆・採録した際には、三品の記述は前よりも若干冷静なものとなっているようにもみえる。それは一九三七年に京都帝国大学文学部講師として一年間、アメリカのカリフォルニア大学とイェール大学に留学し、当時、アメリカ人類学の中心人物であったロバート・H・ローウィやアルフレッド・L・クローバーの指導をうけた経験にも関係するのであろうか。三品は一九四二年にはクローバーの『フィリピン民族誌』を翻訳しているから(横田健一と共訳)、そのころから広く文化人類学的な方向に広く手をのばし始めたのであろう。こうして、三品は後に「文化史管見」という自己の研究歴を回顧したエッセイでは、自分を京都のいわゆる「文化史学」から出立した文化人類学者としている(三品著作集③)。三品は右の「文化史管見」を著作集におさめたときには、その「あとがき」で、「戦前の国体主義者」を非難していることも、それに関わるのであろうか。
 もとより三品が戦争中にとっていた自己の国家主義(スタティズム)、「皇国史観」の立場をどう反省し、合理化していたかは不明であるが、しかし学術研究の内容と成果は、このような政治的な立場とは異なった意味をもつことはいうまでもない。三品が神話における本来の至上神としてアマテラスよりもタカミムスヒが先行していたことを右の図表によって示したことは、以降のタカミムスヒについての研究のすべての前提となった。それを象徴するのは、直木孝次郎一九六八年に発表した「建国神話の形成」において、この三品の図を掲載して本来の神話の至上神はアマテラスではなく、タカミムスヒであるとして『国体の本義』的な神話論を批判したことであろう。そして、そのしばらく後、前述のように、一九七〇年に松前健が重厚な論文「大嘗祭と紀記神話」(一九七〇年一月)を発表してタカミムスヒが倭国神話の本来の至高神であることが完全に確定したのであるが、そこでもこの三品の図は重要な論拠として参照されている。
 もし、右に述べたように、『国体の本義』のアマテラス絶対視に三品論文の趣旨が若干でも反映されていたとすれば、ここで『国体の本義』の神話論の破綻が学術的に確認されたといってよい。アマテラスの国家神としての位置を強調した三品の図表がアマテラス中心主義が神話論としては誤りであることの証明として使われたというのは皮肉な結果だが、これが学術の本質であろう*7。
 
津田左右吉の議論の問題性・・・・倭国神話を神話と認めない
 右の三品の論文「天孫降臨神話異伝攷」の意図は戦前の神話研究の中心人物であった津田左右吉のタカミムスヒ論への批判にあった。そこでまずそれを紹介すると、津田はタカミムスヒのムスヒについて「生産する霊妙なはたらきとでもいうべき概念を擬人化して神の名としたものである」と本居の定義を繰り返した上で、この定義は「抽象的概念」であるとし、「こういう抽象的概念」の利用は知性の発達を必要とするから、「決して民間信仰の神ではない」、「名まへだけの神」であり、(アマテラスと比しても)「晩出の神」に過ぎない、神話を記述した当時の知識人が「シナの学問」を摸倣して机上で創作して付加した神にすぎないとする(津田①三二九~三三四頁)。
 これは日本神話から唐心を排除する考え方という意味では本居と同じ考え方である。津田は明治国家の国制は近代的なもので国民に政治は委ねることを基本とすると考えており、そのような日本の近代化を推し進めた天皇制を支持し、天皇を敬愛する「明治人」に普通の国民主義者(ナシヨナリスト)であった。またそれと同じように、歴史上の天皇も政治の現場にかかわらずに不執政であるのが本質であり、文化的な権威や敬愛によって成り立っているものだと考えていた。そうである以上、政治が神権的に行われるとか、天皇個人が神として崇拝されるなどのことはなかったというのが津田の意見であった。それは中国の思想であって、日本はヤマト国家の昔から、同一の民族が農業をもとにして作った戦争もない平和な国家であるというのである。
 そういう立場からすると、日本を近代的な帝国としていくためには、津田にとって中国と中国思想からの脱却はどうしても必要なことであったのである。このような思想は「神」や「神権制」というものをどう考えるかは別として、全体としては、本居や平田と似たところがあるのは否定できない。彼らは、所詮、時代の子なのである。
 しかし、本居と津田がまったく違うのは津田はそもそも『日本書紀』『古事記』には本来の神話というべきものは書かれておらず、そこにあるのは一面では重臣たちが皇室を敬愛して皇位を由来を讃えるための素朴な政治的な物語であるが、農業民の単一民族の平和な国家の思想を反映しているという。そして他面ではその物語性は当時の知識人が中国の神仙思想によって机上で作成したという生煮えの性格をもっているという。津田にはそれが我慢がならなかった。もちろん、そこには若干の民間説話が反映しているが、それは枝葉末節であって神話でないというのである(津田「建国の事情と万世一系の思想」)。そして津田は儒教のみでなく老荘思想、神仙思想をふくめて、中国思想というものを軽蔑していた。これは津田がとくに平田を排斥する理由である。津田はおそらく平田を真面目に読んだことはなかったであろう。私は、最近、『老子』の注釈を試みる中で、中国の道教や神仙思想の鍵となっていた『老子』についての津田の読みが偏見にみちたものであったことを思い知ったところである(『現代語訳 老子』)。
 津田は論著『日本の神道』において本居の仕事に「古語に関する学問的研究の道を開いた」「着実な学問の一面」を認めるが、基本的には「文献上もしくは事実上の確かな基礎の無い、論理的に考えられたものでもない単なる思いつき」であり、さらに実際上は儒教などの「シナ思想」に影響をうけたものであるとする。津田にとっては神道神学などは「文明開化」以前の素人学者にしかみえなかったのである。しかし、これは宣長の神学や『古事記伝』の体系を読み抜いて内在的に批判した上でいわれているのではない。上記のムスヒについての理解も本居の定義をそのまま認めたものであるが、津田の仕事にはしばしば、そのような本居依存が見うけられ、しかもこの場合もそうであるように、その見解が本居によるものであることを明示していない場合が多い。ところが津田は他方で「ムスビという観念は必ずしもシナ思想から出たとする必要はないが」と唐突に一言するのであるから、ようするにこれは「ムスヒ」について独自な研究はしていないということを告白したに等しい(津田①三三三頁)。
 このような津田の見解に対して、三品は「(津田が)ムスビの信仰が固有なものではなく、支那思想によって構想されたとすることが、かなりの独断であることは、我が古代観念に親しみを持つものには説明しなくても分明するであろう」とこの論文の付記に記した。ここで「我が古代観念に親しみを持つもの」というのが本居の産霊論を学び親しんでいるものということを意味することはいうまでもない。私も、この津田の断定は「独断」的なものだと思う。
 津田の仕事は、自分自身でテキストと語句の解釈を突きつめないまま、豊富な漢籍の知識を駆使して『日本書紀』『古事記』のテキストを比較し、製作時代の前後、相互の矛盾、そして「潤色」を指摘するという文献学的な方法にとどまっている。津田のテキスト批判は、没意味的で外在的な側面が強い。石母田が批判するように、津田の『日本書紀』『古事記』の読みは物語を文学的に読むということがほとんどできていないが、それはようするに津田には神話的な構想力というものが読めていないということである。
 とくに問題であったのは、津田は本居が提示した民族神タカミムスヒと国家神アマテラスの区別という論点にも立ち入らなかったろようとしなかった。その上で一方で津田はタカミムスヒを直接に中国的なものとして否定してしまい、他方でアマテラスは平和な皇祖神の物語にすぎず、それを自然物としての太陽に知識人が机上で結びつけたものであって、これも神話ではないと否定してしまった。しかし、これはタカミムスヒの否定がいわば絶対的であるのに対して、皇祖神と太陽の実在はみとめざるをえないのであるから、津田は結局、記紀の物語における至上神はアマテラスであるとしたのである。たしかに津田はアマテラスを神話の至上神としている訳ではないが、結局、ある意味では津田の見解は『国体の本義』のアマテラス中心主義と期せずして一致してしまったのである。
 ようするに、「民間説話の本質を有する宇宙生成物語が、少なくとも神代史の上に現れていない」(津田①三八一頁、『日本古典の研究』上)。倭国には民間説話・民間信仰はあっても自前の神話はなかったというのが津田の考え方なのである。これは実は日本神話学の祖とまでいわれることのある高木敏雄の議論の借用の側面があり*8、学史の問題としては別個に議論しておく必要があるが、私見では単純なヨーロッパ中心主義者であった津田にとって神話の名に値するものはギリシ・ローマ神話だったのであろう。このような津田の立場が神話研究としては、到底、なり立ちうるものでない。津田と神話論を交わす意味はないのである。このことは、戦後派の歴史神話学を代表する岡田精司が津田を批判して「古代社会では神話は読み物ではなく、祭儀の実修と結びついて神聖視されたものであり、信仰の中に生きていたはずであるが、従来の成立論(津田をさすー筆者注)の多くは作為性が強調される一方で、その問題が視角の外にあった」と述べたことによって確定している(岡田一九七五、二九一頁)。
 さて、そうはいっても津田は近代的な合理主義と文献批判の洗礼をうけた学者であり、その仕事には大きな意味があった。津田のこのような側面についての私見は拙著『日本史学 基本の30冊』(人文書院、2015)を参照されたい。歴史学の基礎は文献史料の史料価値についての厳密な点検・批判・考証にあるから、『古事記』『日本書紀』に対して初めて文献学的なテキスト批判を行った津田の仕事はいくら瑕疵が多くても歴史的に高い価値をもった。とくに津田は『古事記』『日本書紀』編纂のもとになった「帝紀(天皇の年代記)」と「旧辞(古い物語)」がだいたい六世紀には存在していたこと、そこに当時の国家の政治思想が直接に反映していることなどを否定しがたい形で明らかにした。『日本書紀』『古事記』などの神話史料は、ある時点で人が執筆したものであることは津田によって明らかにされたのである。
 また、津田の学問の優位性は、津田が広い漢籍の知識をもつ中国思想史の学者でもあったことにあった。津田はそれにもとづいて、本居によってもっとも日本的なものと理解された『古事記』も実は東アジアの神仙思想によって潤色されていることを突き止めた。とくに津田が重視したのが、中国の南部に栄えた六朝時代の貴族文化である。現在では、当時の倭国が百済を通じて中国の南朝からきわめて大きな影響をうけていたことがさらに詳細に明らかになっているが、津田は、この関係の中で、六朝における道教、不老不死の方術、神仙思想などの神秘主義思想が『古事記』『日本書紀』に大きな影響をあたえたとした。津田が、この段階ですでに「天皇号」が道教思想の影響下で採用されたものであることを論じていることも歴史学界にはよく知られていることである。
『国体の本義』と津田左右吉・・・・近代的国民主義者として
 さて、微妙な問題は、三品の論文「天孫降臨神話異伝攷」(一九三四)は一〇年ほど後に著書『日鮮神話伝説の研究』に収録されたが、その際、原論文に付記されていた津田批判は削除されたことである(『三品彰英論文集第四巻』に増補の上、再刊)
 その事情は明瞭でないが、おそらくは、津田が一九四〇年に主要著書の発禁と大学からの辞職という運命に追い込まれ、またこの三品の著書刊行の前年、一九四二年には津田がその著書が「皇室の尊厳を冒涜した」として禁錮三ヶ月(執行猶予二年)の刑を宣告されたこととの関係であろう。つまり、三品の論文が発表された一九三四年には津田はまだ旺盛な執筆活動を行っていたが、三品著書刊行の一九四三年一月は津田は裁判中で、五月には刑の宣告がまっていた。三品は反論の自由をもたない津田に対する批判を著書に採録するのを控えたのである。
 津田は「明治人」にしばしばみられる熱烈な国民主義者(ナシヨナリスト)であり、天皇主義者であった。津田の研究には「皇室の尊厳を冒涜する」意思は毛頭なかったことはいうまでもない。それはアジア太平洋戦争後、津田が天皇制批判に対して猛然と反発し、天皇制を日本の歴史を象徴するにふさわしいものとして擁護したことで明らかである。そこからみると、一九三〇年代、『日本書紀』『古事記』を細かく検討するという津田の学術研究それ自体が「国家神道」を中軸とした極右勢力の虎の尾を踏み、「神典」である『古事記』『日本書紀』を汚すものとして、主要著書の発禁、大学からの辞職、法廷において神武天皇以下の「実在」を承認させられるという運命にさらされることは何といっても異様であり、残念なことであった。
 これに対して、津田は戦争中の抑圧によく耐えて節操をつらぬいた。この学問・表現の自由を当然とする学者としての姿勢が戦後の人文社会学界から大きな尊敬の念をもって迎えられたのは当然であったであろう。私は津田の本居・平田の学問に対する態度にはどうしても納得できないものを感じるが、しかし、津田が天皇主義者としての立場は強力に維持したまま戦後初めて政治と神話の問題について発言した「日本歴史の研究における科学的態度」の次の一節には共感するところが多い。
 神代という時代が事実あったとし、アマテラス・オオミカミ(天照大神)を実在の人物とし、皇室の万世一系であることはこの大神の神勅によって決定せられたとし、天皇は今日でも神であられるとし、わが国には神ながらの道という神秘的な道が昔からあったとし、オオヤシマ(大八嶋)は最初から皇室の統治をうけた一国であったとし、日本は世界の祖国であり本国であり、従って世界は日本に従属すべきものであるとし、チョウセン半島はスサノオ(素戔嗚)の命によって経営せられたものであるから本来日本の一部であるとするような、主張が生ずるのである。
 これらは概していうと神道者や国学者の思想をうけついだものであるが、近ごろのこういうことを主張するものは、国学者の考えたように、漢文で書かれシナ思想で潤色せられているという理由で『日本紀(書紀)』を排斥することはせず、却ってそれを尊重するので、それがために、シナの種々の書籍のいろいろな辞句をつなぎ合わせて作ったその記事なり詔勅として載せられている文章なりをそのままに信じ、またはジンム(神武)天皇の即位を今から二千六百余年の前とする『日本紀』によって初めて定められた紀年をも、たしかなものとして説いているが、これはエド(江戸)時代からメイジ(明治)年間へかけての幾人もの学者によって、事実でもなく真の詔勅でもなく、またシナ思想によって机上で作られた年数であることが証明せられ、それが学界の定説となっているものである。ところが、そういう過去の学者の研究による学界の定説をさえ無視した主張のせられたところに、漢文を尊重しシナ思想を尊重する儒者の偏見のうけつがれたところがある(津田左右吉歴史論集』二四八頁)。
 前半部分は「国学」に対する批判である。タカミムスヒが無視されていることなど、これが本居・平田に対する批判として適当なものとは考えられないが、現実の国学がそのような特徴をもっていたことは否定できない。注目すべきなのは後半であって、これは「近ごろのこういうことを主張するもの」は「国学者」とは違って、また「過去の学者の研究による学界の定説をさえ無視」して、「シナの種々の書籍」によって作られた「記事・詔勅」をそのままに信じる。これは「漢文を尊重しシナ思想を尊重する儒者の偏見のうけつがれたところがある」というのである。
 この「近ごろのこういうことを主張するもの」とは「国家神道」のことであり、より端的にいえば『国体の本義』の主張である。つまり「シナの種々の書籍」によって作られた「詔勅」とは冒頭でふれた「天上無窮の詔勅」そのものである。また「シナ思想を尊重する儒者の偏見」というのも『国体の本義』そのものである。先に『国体の本義』を紹介したときには述べることを省略したが、実は『国体の本義』は老荘の個人主義、仏教の観想主義とくらべて、儒教に対する評価がきわめて高い。「儒教は実践的な道として優れた内容をもち、頗る価値ある教である」「儒教は我が国体に醇化せられて日本儒教の建設となり、我が国民道徳の発達に寄与することが大であった」というのである。そして、『国体の本義』は何よりも価値ある儒教として水戸学をあげる。たしかに、祭政一致の理念や対外的強硬、さらには「国体」という言葉自体が水戸学を代表する会沢正志斎の『新論』によっていたのである。実は津田は先に紹介した『日本の神道』において近頃の「国家的権威を神道の基礎の上に置いてそれに宗教的意義をもたせようとする」動きを徳川時代に「主として儒教の影響をうけ、儒者のいう聖人の道とか先王の道とかに対する意味での『神の道』を立てようとしたもの」と同じものだとし、「水戸派の神道説」を果敢に批判したのである(二・五・三二五頁)。
 この『日本の神道』は『国体の本義』が出された一九三七年の一一月から一九三九年にかけて発表されたものだったから、私はこれが一部の国体論者と軍部を刺激したものと考えている*9。こうして、津田は『国体の本義』発行の三年後、一九四〇年に主要著書の発禁と大学からの辞職という運命に追い込まれた。

負の遺産からの出発
 さて、現在、学界のほとんど全員が本居のいうように、倭国神話の本来の至上神はタカミムスヒであったこと、またタカミムスヒからアマテラスへの至上神の交代は天武天皇以降に起こったことを常識としている。それは松前健・岡田精司・上田正昭・溝口睦子などの代表的な倭国神話の研究者が一九五〇年代から六〇年代にかけて、大枠では三品説に従って、続々とタカミムスヒがアマテラス以前のより古い民族的な神話の至上神であることを論じたことに明らかである。これらの仕事については、おのおの必要なところで論究することになるが、それが通説となったことの象徴は、一九六八年に発表された直木孝次郎「建国神話の形成」が、この三品の図を利用してすべての議論を始めたことである。
 しかし、学界では、率直にいってこの問題は重大な問題とはまったく考えられていない。もちろん、アジア太平洋戦争の後に一世を風靡した騎馬民族国家説はタカミムスヒが倭国神話の主神であることを明瞭に主張していた。たとえばその主唱者であった岡正雄の主論文である「日本民族文化の形成」が「皇室神話にあって天照の占める位置は軽い。天照はただ、天照の子の忍穂耳と高皇産霊の女、𣑥機千々姫とが結婚して天孫瓊々杵が生まれるという。この点にのみ関係しているといって過言ではないであろう。すなわち、高天原神話の主神は高皇産霊と考えざるをえない」としている通りである。しかし、騎馬民族国家説は満州から韓半島で活動した騎馬民族が天皇家の祖先となったということで有名になっただけで、本来、その中心的論点であったタカミムスヒについての議論は影におかれたままであった。
 このような学界の状況を示すのは、普通の「古代史」のシリーズ本などにはこの神の名前は出てこないことである。また、神道神学と神社の世界の表面からもタカミムスヒへの尊崇という声は聞こえない。そもそもタカミムスヒについて学術的な説明をしている一般書は、溝口睦子『アマテラスの誕生』(岩波新書)以外に存在しない状態である。溝口は騎馬民族国家説の議論をうけて、倭国神話の本来の至上神はイサナキ・イサナミであって、それが五世紀半ばくらいに韓半島からの影響をうけてタカミムスヒが至上神となり、七世紀末から八世紀、つまり天武天皇から持統天皇の時代に初めてアマテラスが至上神となったと論じている。しかし、このような本はこれ以外には存在せず、歴史教科書などにタカミムスヒが登場しないことはいうまでもない。
 それ故に、多くの人びとが、この神の名前さえ知らないのは当然のことである。こうして現在、日本の国家社会からは本居・平田の主張したタカミムスヒ尊崇は完全に消失した。平田は『古道大意』で「神国に生まれて神の御末とある、この御国の人の(タカミムスヒをー筆者注)よく弁へて齋き奉らぬと申すはあまりと云へば不正なこと」と述べたが、タカミムスヒは「齋(いつ)き奉(たてまつ)らぬ」どころか名前さえも忘れ去られたのである。
 どの民族にも「神話力」というようなものがあるとすれば、アジア太平洋戦争を推進した大日本帝国は神話を表に立てて戦争を遂行したことによって、民族の神話力をいわば使い切ってしまったということであろうか。戦争が終了するとともに、「羹にこりて膾を吹く」というべき事態がもたらされ、神話は一種のタブーとなった。現在、人々は倭国神話自体への関心を失っており、最近ではタカミムスヒどころか、イサナキ・イサナミ・スサノヲ・オホクニヌシなども忘れられつつある。他方、皇国史観の中でアマテラス神話のみが国定化され鼓舞された結果、その形骸は強く残り、アマテラスのみが神話の至上神であることは疑いをもたれることすらない。
 戦争は、神話を忘れ去り、伝統文化のなかでの神話の位置、そして神道と神社の文化的な位置を大きく下げる結果となったが、いわばその代償としてアマテラスだけは残ったということなのかもしれない。こうして文化としての神話は、日本においてはほとんど命を断たれてしまったということができる。これを取り戻し、倭国神話の中で現代の文化の中に取り戻すべきものを取り戻すこと、とくに神話と神道と神社がもっている遺産の中から、自然に対する新しい現代的思想をくみ取れるようにすること、私はそれが必要だと思う。

 本書では以上のような状況をふまえて、タカミムスヒ・カミムスヒについて集中的に論ずる。結局はこの二神についての具体的なイメージを明らかにすることが問題の状況を変えていくためにもっとも必要なことだからである。アマテラスのイメージは善かれ悪しかれ「太陽の女神」として明瞭であるが、タカミムスヒのイメージは本居がいう「ムス(生成)のヒ(霊威)である」という定義のままでは抽象的すぎる。この神が実際に民間の神話意識に根をもつ神話の最高神であるとすれば、人々はこの神に具体的な神格とイメージをあたえていたはずである*10。


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