976年地震が南海トラフ大地震であった可能性について

 ある紀要のためにに書いたもので予定変更により出版は来年の三月頃となりますが、(私説が正しいかどうかは別として)事柄は重大と考えていますので、オープンします。

 これに関係してツイッタに下記の文章をだしてあります。

「昨日の東京新聞。南海トラフ大地震についての地震本部などでの内部討論の様子を議事録などから復元している。三,一一前後の地震学内部の実情がわかって興味深い。しかし、3,11までの地震学の予知の根本問題は、過去の地震データを真剣に考えていなかったことであることは明瞭に確認された事実。

 南海トラフ大地震の歴史史料は稀有に長期に渡って残ったものであって、発生間隔90年から140年は覆せない。地震学者からは一三世紀以前は250年を超える発生間隔ではないかという意見を聞くが、私見では797年、976年、1245年地震も南海トラフ大地震であった可能性があると論文をだしてある。
 ジャーナリズムが報道するのならば、地震学内部における歴史地震研究の状況も正確に報道して欲しい。3,11前までは地震学研究者の多くが原発に対して甘い態度をとっていた。ありがちなことだが、それは地震学に社会意識、歴史意識が欠如していたこととパラレルな問題であることは明らかだ。
 歴史地震研究を進める体制はできたので、基本的な問題はクリアーできたが、3,11で歴史地震が重大だと学んだことを忘れて欲しくない。

 なお、上記仮説は、地震痕跡の考古学的研究の稠密化、そして南海トラフ大地震トラフ地震の繰り返し発生間隔論が理学的に詰まってくることによってしか支持されない。文献史料からは可能性の指摘ができるだけである。

 以下、論文からの抜粋です。

976年(天延4)6月18日の地震 
 『日本紀略』は、この地震を「地震の甚だしきこと未曾有矣」とし、京都では(内裏)八省院・豊樂院・東寺・西寺・極樂寺・清水寺・圓覺寺(北白川粟田山荘、清和の崩御した寺)などが顛倒し、清水寺で50人ほどの圧死者がでたとしている。『扶桑略記』も内裏築垣・天下舎屋・京洛築垣が悉く頽落したと述べるが、仏教的な色彩、とくに天台宗の色彩が強い編纂物であることを反映して近江にふれているのが貴重である。それによれば崇福寺の法華堂が南方に頽れて谷底に落ち込み、時守堂の僧千聖が同じく谷に落ち入って死亡し、鐘堂が顛倒し、弥勒堂の上岸が崩落して堂上に居る(位置にあった)一大石が落ちて乾角を打損じたという。崇福寺は965年(康保2)に全焼しているから、残っていた建物が崩壊したということであろう。また近江国分寺の大門が倒れ、仁王が悉く碎損し、瀬田唐橋の東1㎞の丘陵上、國府廳と雑屋の卅餘宇が顛倒した。さらに関寺の大佛が悉碎損し、腰上はすべて無いという状態となったという(「関寺縁起」には地震記事はないが、源信(942~1017)によって復興とあるのは話があう)。なお、仏教資料としては『元帥法伝来記』(石山寺所蔵)に醍醐寺西南の小栗栖にあった法琳寺が「堂塔僧房、或以顛倒、或以傾頽」という被害をうけていることが記録されている。
 以上が事実史料であるが、さらにおそらくこの地震が大きな話題となったことを傍証するものとして、ちょうどこのころ書かれた『宇津保物語』に地震を起こす琴の説話があることを紹介しておきたい。これはペルシャから琴を得てきた遣唐使・俊陰の娘が、父の死去後に没落し、賀茂の奥、山城近江国境の山に迷い入ったが、そこで山を占領していた東国の武士に襲われ、琴を弾いて地震を起こした。「一声かき鳴らすに、大きなる山の木こぞりて倒れ、山さかさまに崩る。立ち囲めりし武士、崩るゝ山に埋もれて多くの人死ぬれば山静まりぬ」という物語である。ここにはオホナムチの地震を起こす琴という伝説が復活しているといってよいが、この物語は、976年地震の経験を何らかの形で反映しているといってよいだろう(なお、「東国の武士」とあることからすると、この『宇津保物語』の地震記述には、将門純友の反乱の頃、938年(承平8)4月と8月に京都を襲った地震が反映していた可能性もある。ただ、この地震は余震が多かったものの、被害記録も少なく、9世紀に多かった京都群発地震と同じものであったと考えられるので直接の印象としては976年地震が大きかったと考える)。
 この地震が相当の大地震であったことは疑いないが、問題はその実態である。西山昭仁は、内裏八省院その他の建物が全壊ではないことを示し、また清水寺の圧死者もこの日が観音の縁日であったためという要素があるとした。そして京都と近江の震度に大きな相違はないとした上で、この地震を「京都近傍の内陸地震」として、その震源域を「被害域の中心にあたる山科盆地東縁付近」に求めた。しかし、私は、この地震が10世紀の東海地震であったという仮説を提出しておきたい。京都・近江のみをとってみれば、この地震の被害状況は次に検討する1096年の東海地震と大きくは異ならないのである。もちろん、この地震については、洛中と近江の被害記録のみで東海地方の記録が残っていないが、それは基本史料が外記日記を中心としていたとされる『日本紀略』(山中裕1988)と天台関係の色彩が濃い『扶桑略記』であることによってもたらされたものであると考えることもできる。
 問題は、この地震をうけて7月13日に天延から貞元に改元された直後、7月18日にふたたび「大地震」が発生したことである。この地震による被害は記録されていないが、20・21・23日と余震が続いている。さらに、それから約2ヶ月後の9月23日にも、ふたたび「地大震其響如雷」という地震が発生した。これらの地震には被害記録は伝えられていないが、しかし、注意すべきなのは、この9月の地震の後、半月余りを経過した10月11日に、時の天皇円融が某社に神寳を貢献し、「天変地震」についての祈祷を行っていることである。それに続いて19日に建礼門院で大祓を行い、21日に「仁王会」を開催して内裏で仁王経を読誦していることも地震祈祷と理解することができる。6月18日の地震からみると、約四ヶ月後の祈祷となる。これは7月18日あるいは9月23日の「大地震」「地大震」が京都以外の地域での地震被害をもたらし、朝廷として地震をはらおうとしたことを示すのではないだろうか。『日本紀略』が地方の地震被害の記事までは採録しないのが普通であるから被害記録がないことは十分にありうる。7月18日あるいは9月23日に6月の東海地震に対応する南海地震が発生したということではないだろうか。9月23日地震に余震の記録がまったくないことを重視すれば、7月18日地震が相対的に小規模であれ南海地震であったのかもしれないと思う。

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