後ろ手に剣を振るイサナキ

 イサナキは黄泉から逃げ出すとき、後から地下の雷神(魔物)に追われたが、『古事記』だと、そのときイサナキは「後ろ手に」剣を振ったとある。これは蛇が尻尾を振っている様子だという解釈があります。
  けれどこれは手を頭の辺りまではあげて、背中に取り憑く何かをなぎ払うようにして左右にふるのだと思う。後ろから追ってきた魔物が背中に取り憑くのを剣の力で祓おうというのである。以前、『中世の愛と従属』という本で論じたように、絵巻物には神仏のみでなく鬼がオンブされる場面があるが、ようするにオンブオバケである。剣を背中の全面で振ることによって、彼らが背中に取り憑くのを払うのである。
 私は竹刀でやってみただけだが、走りながらこういう剣の振り方を力強くやるのはなかなかむずかしいが、祓いに剣を使うというのは、そういうやり方だと思う。
 背中というのは人間にみえないものである。だから家来従者のうちで信用される人は前駆ではなく、「後見」として主人から信頼される存在である。主人は後から見られることによって未来を保障され前進する。未来を前に見ることができるのは後顧の憂いのない特権的な立場であって、昔の社会はこういう身体的な関係のなかで有位にある人のみが未来を身体感覚としてもてるという社会である。そうではない人は過去から離れることはないまま、未来は不思議であり、また恐ろしいものとして背中にとりついてくる運命としてあらわれる。
 そこでの救いは「愛」にあったのだということを強く感じさせる絵巻物の画像が、男が女を背負う画像である。日本では婚約はダッコではなく、伝統的にオンブであった。それはもう一人の根の国・黄泉の国から逃げ出した男の神、オホクニヌシが、根の国のスサノヲの娘を背負って、逃げ出す話以降、さまざまなオンブの話が伝わっている。
 しかし、いま考えてみると、男が女の案内で道を進む、闇の中を進むという物語もあるはずではないか。いままで考えたことがないので、意識していってみたい。

 以上は朝の散歩で考えたことですが、以下は『歴史評論』の2月号に書いたことです。少し関係するので載せます。
 さて、歴史学では、足利時代に大きな時空意識の変化がおきたということがある。つまりそれ以前は「過去は眼前にあり、未来は不可視のものとして背中側に存在する」。人の一生の中で目の前にある風景はほとんどかわらない。そこでは過去は常に目に見えるが、未来というものはみえないものであるという本質が人間の身体意識に染みついている。ところがそれが「未来が眼前にあり、過去は不可視の背中側にあって見えない」という時空幻想に転化していく。
 これは「能」に引きつけると、いわゆる夢幻能が源平合戦の歴史物語化であったことに関係する。「能」には神話に題材をとった神話能というべき類型もある。「能」は過去と死の世界に向かう文芸的芸能である。これは過去をイメージとして脳内部に蓄積することであり、それによって過去は後頭部から背中にまわるのだと思う。これは孤立的な現象ではない。一二・三世紀以降の百姓解・申状の大量化、識字能力の拡大、古典文法の転形などの文化と言語現象の全体が、知識によって過去を日常意識に織り込む時空感覚をもたらし、それが過去を頭脳のものに変換したのだと思う。これは個人意識のあり方の変化にも関係していたといわれるから、ここでは文字ではなく、集団に関わる芸能の位置はきわめて大きかったと考えられる。過去が不変の自然や儀式として眼前に固定している時代から、過去が背中にまわり、眼前に未来があるかのような時空幻想が構造化した時代への変化である。
 それでも50年ほど前までは、過去はみえた。現在は、昔と違って過去がまったく身体的にみえなくなった社会である。これはどうなっていくのだろう。

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