藤原千久子先生の授業「中世の民衆」についてのコメント

 藤原報告は、1977年に『歴史地理教育』誌上で提案した中世史の小学校カリキュラムの現在の段階を報告したものである。「小学校の通史学習で中世をどう教えたか」(『歴史地理教育』267号、1977)、「躍動する中世の民衆」(『同』471号、1991)と読み比べると、長期にわたって経験と工夫が蓄積されてきたことがわかる。
 授業の内容と形態が地域・教師・子どもたちの特徴や個性によって多様性をもつことは当然だが、我々にとっての「過去」が動かしがたい客観性をもつものである以上、「それらの歴史事実をどのような順序で、どのような教材を使用して子どもたちに伝えるべきかについて十分な試論を組織すること」(保立「歴史を通して社会をみつめる」(『共生する社会』、シリーズ学びと文化④』、東京大学出版会、1995年)、別の言い方をすれば、小学校の中世史授業の「典型」を考えていくことは、どうしても必要なことだと思う。それはけっして授業のマニュアル化ということではなく、カリキュラムと教材研究の深化と共有、複線的な系統化ということである筈である。
 藤原先生の基本認識は、「子どもたちが楽しくわかるというのは、この様に、その時代を生きぬいた人々の様子が具体的にイメージ化できることである。また、その時代が他の時代とどうちがうのか、前の時代よりどのように発展してきたのかの順次性を認識することである」(■■頁)というまっとうなものである。その上に立って、藤原カリキュラムは、歴史の順次性という点では、中世の歴史の展開を①中世=荘園制下における貴族と武士の二重支配からの解放、②生産諸力と商品経済の発展、③都市・農村における共同体の自立、④民衆運動の発展という筋を通す方針をとっている。そして、具体的なイメージの展開という点では、1977年段階では、河野通明氏の史料・教材研究を前提として、紀伊国阿テ川荘の百姓言上状などの文書を子どもとともに解釈する点を重視しており、最近ではさらに絵画史料によって教材を豊富化することを目指している。
 報告を読ませていただいて、歴史認識における初心に戻ることの必要を痛感させられた。藤原カリキュラムが全体として了解しやすく先進的なプランであることは明らかであり、これを生かして、中世史のカリキュラム論を進展させるための議論に参加したい。私にとっては、その最大の論点は、①の「二重支配」の内容である。これは中世社会をどのように理解すべきかという問題とイコールであり、まず、私は、中世を通じた二重支配の存在という指摘に賛成である。その視点は、中世を公家から武家への権力交替の時代とみて、国家、王権や公権力の問題を背景においやってしまう古い見方、いわゆる公武権力交替史観から基本的に解放されている(参照、保立「中世史研究と歴史教育」、『歴史学と歴史教育のあいだ』、三省堂、1993年)。しかし、それを「貴族と武士の二重支配」(■■頁)、「貴族と地頭の二重支配」(■■頁)、「荘園領主と守護大名の両者による支配」(■■頁)と捉えること、つまり、「貴族(公家貴族)=荘園領主」「武士=地頭=守護」の二重支配とすることには検討の余地があるのではないか。もし、荘園制を公家貴族を中心に捉え、地方領主を武士と等置してしまうならば、そこには、まだ公武権力交替史観の残り滓がまだ含まれているように思う。
 具体的にいえば、まず、荘園領主は京都・鎌倉・奈良などの大都市に居住する都市貴族であるが、その中には公家貴族の外にも、「将軍家」以下の軍事貴族が含まれる。平安時代末期の内乱以降、都市貴族の中で軍事貴族の位置が優越していき、室町時代以降は、軍事貴族が国家と荘園制的土地領有体系の中心にすわったのである。また、「武士=地頭=守護」という定式についても疑問がある。一般に地頭領主は、地頭職を広域的・全国的に保有している。彼らは一面では中央都市軍事貴族の中層を構成し、他面では諸階層の地方領主の上層にいるような存在なのである。そして、武士とは、黒田俊雄氏がいうように、それ自体としては暴力を職能とする身分を意味する(黒田「中世の身分制と卑賎観念」著作集⑥、法蔵館)。武士は、そのトップクラスには将軍家以下の都市軍事貴族を含み、裾野には様々なランクの暴力行使を職能とする身分階層が存在するような、階級的には多様な存在である。もちろん、この職能をテコにして彼らは領主制を発展させたのであるが、それにしても「武士=地頭」という等式は正確ではないのである。
 以上、藤原報告の提起した中世の二重支配の問題は、中央都市貴族・領主と地方貴族・領主が二重に存在する荘園制下の階級的構造の問題に読み直すことによって生かしていくべきだと思う。近世社会への移行とは、この二つの領主類型とその家柄が、荘園制の成立と消滅に対応して、だいたい平安時代末期に成立して戦国期に消失していくという問題であり、それを各地域・各荘園の代表的な荘園領主と在地領主の家柄に即して説明すればよいのだと思う。もちろん、現在の中世史研究は、中世社会の構造や発展に関する共通認識を提示できておらず、順次的・通史的認識のために必要な古代・近世史研究との間での移行期論争も、70年代半ば以降、低調となっている。この事情の下で、以上は抽象的な全体論に過ぎず、また私個人の受け止め方にとどまるものであることをお断りしておきたい。しかし、それをおそれず私見を述べたのは、この議論が、藤原カリキュラムの全体像に関わってくるからである。
 以下、それを、カリキュラム全体の中での武力のイメージの問題に絞って述べたい。報告には、暴力を荘園制とは区別された国家権力や身分・職能の問題として説明するのではなく、もっぱら「地方領主=武士」を中心に説明する傾向がないだろうか。たとえば、平安時代末期の内乱が、武士団相互の戦闘行為を越えた国家暴力の創出の本質をもつことは独自に強調してよい。それが本格的な戦争としての惨酷な性格をもっていたことを即物的に伝えたい(参照、野口実『武家の棟梁の条件』中公新書、1994。川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』講談社新書、1996)。それは中世後期になれば近世社会にむけて、いよいよ強化されていくのである(池上裕子『戦国の群像』、集英社版日本の歴史、1992)。
 藤原カリキュラムでは、武士の教材として『平家物語』の河原兄弟の一節を採用し、中層武士の苦悩を読み取らせることにポイントが置かれている。また、「武士」というと「一所懸命」というキーワードによって、土地との結合を論ずるのは、小学校から高校までの定形パターンであるが、それはやめた方がよいのではないか。地頭領主はけっして「一所懸命」ではない。さらに、それとの関係で、「元寇」の取り上げ方がどうなっているのかも気になるところである。
 そして、河原兄弟の挿話を教材として採用するならば、むしろ注目すべきは、戦場に従者として動員された下人の問題である。下人論については、本書の別稿で論じたが、中世における多数者・民衆=下人の立場からは戦争はどう見えたかというような立論があってよいのではないだろうか。戦争被害は、まず何よりもこのような階層に現れること、他面で下人の戦闘動員こそが、村落における「地侍」の形成の基礎をなしたことを重視したい。また、これとの関係で、一揆的運動における武力の意味ももっと限定して伝えるべきではないだろうか。「地侍」はよくいえば自警団組織、実際には地方暴力団組織ともいうべき側面があり、彼らの武力は一揆闘争の中で大きな意味をもつものの、現実には支配層内部の分裂の中で一方の武力として動いている場合が多い。その点では、山城国一揆も加賀一向一揆も無限定に評価することには慎重でなければならないと思う。また私は実態としても民衆運動と武力の問題は、すでに平安時代には登場していると考えており、(研究の側に跳ね返ってくることを恐れずにいえば)これによって、民衆運動の段階を画することには慎重であるべきだと思う。
 以上、本来は藤原カリキュラムの重点である民衆史や経済史的諸問題について述べるべきであったのかもしれないが、紙幅の関係もあって本当に一面的なコメントになってしまったことを御許しいただければと思う。しかし、報告の提起した「二重支配」の問題はそれをどのように子ども達に論理化して伝えるかという問題を含めて最大の要点であると考える。私は、本書所収の別稿で、しばしば五位の「零落」と対比して武士の新興を教えるという形で取り上げられることが多い『今昔物語集』の芋粥の説話を下人論の素材として取り上げた。それは、藤原報告に接して、芋粥の説話は、京都の荘園領主(摂関家)と地方の領主制(藤原利仁)の関係を示しており、成立期の荘園制的支配の「二重性」の素材としても興味深い素材であることを実感したためでもある。
 藤原カリキュラムの「二重性」の提起を踏まえ、中世のカリキュラムを、芋粥の時代、荘園制の成立期の平安時代から組み立て直す必要があるのではないか。それは全ての問題に波及してくるが、しかし、その作業によって授業時間数の制約の中でも中世のカリキュラムをより全面的なものにしうるのではないかと思うのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?