能登地震と9世紀地震、南海トラフ大地震について、ーー今日の東京新聞一面トップ「国の予測、震度6弱以上0,1~3%」「安全と誤解 油断生む」という記事にふれて

  2024年1月10日。
 今日の東京新聞一面トップは「国の予測、震度6弱以上0,1~3%」「安全と誤解 油断生む」「能登半島地震 専門家が警鐘」となっている。たしかに、地震調査委員会の作成している図を地震について基礎知識のない個人がみると「安全と誤解 油断生む」ということはあるかもしれないが、地震調査委員会は独自の研究組織も必要な予算ももっていない組織で、行政の防災対策のための補助資料を出しているにすぎない。参加している研究者は実質上は責任上やらざるをえない「御奉仕」の要素が強く、学界の善意あるいは職能的責務を動員した組織である。プロジェクトをつくるのにも研究者のボランティアに依存しているというのが実態だ。
 行政が防災に対して直積責任をもっているのとは違う。責任をとれというのならばきちんと手当てせよというのが当然の要求だろう。その行政と政府がだめなのである。そんなことはジャーナリストならば常識で分かりそうなものだ。
 例えば石川県に対しては産総研の岡村行信が2007年地震の関係で必要な情報は伝えており(https://aist.go.jp/Portals/0/resource_images/aist_j/aistinfo/aist_today/vol10_09/vol10_09_p20.pdf)、それを無視した石川県が最大の責任がある。十分な予算と人員を災害予知体制、そして地震学界にださない政府、機動的な人命救助と防災の能力を持たない政府こそが根本問題であることは今回の能登地震の初動でも明瞭になっていることである。
 これこそ大々的なキャンペーンを張るべきことであり、それをやらず、そういう状態には国と政府に責任があることを正面から指摘しないで「権威を批判する」かのような姿勢をとるのはジャーナリズムの狡いところで、読んでいると不快になる。
 とはいえ、能登地震については、私はまったく虚をつかれた。つまり、私は九世紀から一四世紀を専攻していた日本史の研究者だが、3,11以降、地震研究も職能的義務の一つであると考えて個人的に歴史地震研究を始めたにすぎない。『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)を書きはしたが所詮にわか仕立ての素人である。そもそも古代中世地震火山データベースhttps://historical.seismology.jp/eshiryodb/を検索しても能登は一件もヒットしない。地震本部のページには「能登半島周辺では、1729年にM6.6~7.0の地震が発生し、能登半島先端付近で死者、家屋損壊や山崩れなどの被害が生じました」とあるが、それ以前についての記載はない。古代中世の文献史料は今後も発見されないだろう。必要なのは地質学的な系統的調査であるが、これは全国規模で計画的に行うべきことだが、わが政府はそんなことに興味はない。まして、この地域に原発を建ててきた政府がそれに予算をつけるわけがない。
 私は熊本地震のときは一種の「災害予知」をした。つまり右の『歴史のなかの大地動乱』で書いたことだが、私は9世紀史料の中に「肥後国に地震・風水のありて、舍宅、ことごとく仆顛(たおれくつがえれ)り。人民、多く流亡したり。かくのごときの災(わざわ)ひ、古来、いまだ聞かずと、故老(ころう)なども申と言上(ごんじょう)したり。しかる間に、陸奧国、また常と異なる地震の災ひ言上したり。自余の国々も、又すこぶる件の災ひありと言上したり」という史料があることを発見した。現代語訳をしておけば、「肥後国に地震・風水害があって、舍宅がことごとく倒壊し、人民が多く流亡したという。故老たちもこのような災害は聞いたことがないという。そして、陸奧国からも異常な地震災害について報告があり、さらにその他の国々からも地震災害の報告があった」ということになる。この史料は宣命体という特殊な文体であったためもあって、それまで地震学界では見逃されてきたものであった(現在では右の古代中世地震火山データベースにものっている)。
 私はこれにもとづいて、自分のブログで869年の陸奥沖海溝地震津波の前に、この地震があったこと、また3,11東日本太平洋岸地震では熊本もゆれたことなどによって、熊本で地震が起きる可能性があることにふれた。9世紀にあったことは21世紀にも起こりうる。現在はやはり9世紀と同じような大地動乱の時代であるという考え方にもとづいたもので、これは十分な根拠がある。そしてそれに基づいて9世紀肥後地震についての論文を準備していたが、それが完成する前に熊本で地震がおき、人命に被害が出たことは忘れられない。そして私は結局、論文を書かなかった(そのうち再論したいとは考えている)。
 それと比べると、今回の能登地震は、まったく虚を突かれたのである。ただ、『歴史のなかの大地動乱』は8\9世紀の地震の通史なので、能登地震発生後に気づいたのは、863年の越中・越後地震(M七.〇)は能登地震を含んでいたかもしれないということである。この地震を記した『三代実録』では記事が短く、なんとも地震の震源・断層・規模などを想定することはできないのだが、ともかく『理科年表』などでもM七.〇の地震となっている。あくまでも想像であるが、今回の能登地震の実態からいうと、この地震も今回の能登地震と同じような能登半島から佐渡にかけての海底断層が震源断層であったのかもしれないということになる。
 そして素人の悲しさであるが、あらためて気づいたのは、この863年の越中・越後地震(M七.〇)は、830年の秋田地震、841年の信濃地震、850年の出羽庄内地震(M七.〇)などの日本海ぞいで発生した一連の地震の一環であったことである。これはすでに石橋克彦『南海トラフ巨大地震』(岩波書店160頁)で指摘していることで、石橋はこれらの地震はアムールプレート(東にむけて毎年一センチから二センチのスピードで移動)の境界で発生する地震として共通しているといっている。
 そうだとすると、この能登地震のM7.6は内陸地震というよりも、やはりプレート間地震の要素も強いのではないかということになる。2007年能登地震後の産総研の岡村行信の海底断層調査によって、能登半島先端を東西に通る断層の存在が確定した訳であるが、これは海底断層につらなるプレート断層である可能性である。これは素人のいうことなので、本当かどうかは眉に唾をつけていただきたいが、ともかくそういうことなのかもしれないということにやっと気づいたのである。
 最後に今日の東京新聞一面トップ記事についていいたいことは、このアムールプレートの東縁境界では、南海トラフ大地震の50年ほどに前からなかば法則的に地震がおきていることで、これは石橋克彦『南海トラフ巨大地震』によって明瞭に打ち出された仮説である。つまり、887年の南海トラフ大地震の前、830年の秋田地震、841年の信濃地震、850年の出羽庄内地震(M七.〇)、863年の越中・越後地震(M七.〇)と地震がおきてきた訳です。『歴史のなかの大地動乱』は8\9世紀の地震の通史の積もりで書いたのですが、どうしても中心が869年の陸奥沖海溝地震津波となっていて、887年の南海トラフ大地震との関係をぬきにした議論になっていたことを痛感します。
 いずれにせよ、地震学界では岡村行信の海底断層調査、そして石橋克彦のアムールプレートの東縁断層帯と南海トラフ大地震の関係という仮説によって、能登地震は広い意味で「災害予知」されていたのであって、ジャーナリストとしては、このような学説状況を認知するところから議論を始めてほしいものです。

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