「望恨歌」の物語るもの  「井筒」から「砧」へ20211225国立能楽堂 保立道久

「望恨歌」の物語るもの  「井筒」から「砧」へ
20211225国立能楽堂 保立道久

 受付に『能楽の源流を東アジアに問う』という本がならんでおります。お手元にチラシが入っていますが、今日のために書いたものです。この本の執筆者は芸能または芸能史の専門家ですが、私だけはただの歴史学者で能についてはまったくの素人です。しかし、今日は私も、能の「井筒」と「砧」との関わりで「望恨歌」を語ってみます。能は「歴史劇」ですので、歴史家の語りにも意味があるかもしれません。

この本、お買い求め頂ければ幸いです。出版社が相当安く価格設定してくれましたので損をかけたくありません。よろしく御願いします。

「井筒」と『伊勢物語』
 まず「井筒」は世阿弥が『伊勢物語』の「筒井筒」の話にもとづいて作ったものです。「筒井筒、いづつにかけしまろがたけ、すぎにけらしな 妹見ざるまに」という歌はご存じと思います。井戸のそばで遊んでいた幼い二人が大人になって結ばれたけれども、女の家が貧しくて、男の世話を十分にできなかった。そのため男はほかの女のところへ通いだしました。
 二人は大和の東の石上(いそのかみ)に住んでいましたが、男は「田舎渡らひ」、つまり行商を生業(なりわい)としていました。その行商先の河内に女を作ったのです。大和から河内へ行くには大和の西の国境に聳える竜田山を越えます。ある夜、男はその女のところへ向かいますが、それでも妻は男が夜の竜田山の山道を行くのを心配し、「風吹けば沖つ白波竜田山 夜半にや君が一人行くらん」という歌を謡いました。竜田山は「もみぢ葉」の季節とありますから、竜田山の夜道は秋の月によって皎々と照らされています。奈良では、月は西の竜田山の方向に向かって沈んでいきます。女の心はその月になって男を追いかけているということでしょう。
 結局、男も幼ない頃からの情愛は断ち切りがたく、女のもとに戻ってきます。しかし、女には鬱屈が残ったのでしょう。男が死んだ後、女は幼な恋の場、井戸の回りに取り憑いたまま成仏できません。そして女は、月光とともにワキの僧侶の前に亡霊として登場します。ただ女は、竜田山の歌を歌って自分の気持ちを懺悔したことによって永かった執着から解放されます。女は月の光とともに男装の麗人となって再登場するのです。執念から離れた女は再び男と合体した歓びにふるえて舞ったのです。世阿弥はこの舞を「移り舞」、つまり男の霊が憑依した舞いといっています。男装の姿は情愛の深みでは男と女、性の違いはなくなってしまうという世阿弥の人間観を示すのでしょう。
「井筒」と百済歌謡、井邑詞
 以上のように「井筒」では月が大きな役割をします。それはどの夢幻能でも同じですが、「望恨歌」もそうなのです。多田さんが「望恨歌」のを作る上で下敷きにした百済の歌謡、井邑詞(チヨンウプサ)も「月の歌」でした。井邑詞(チヨンウプサ)の原文をそこに写しておきました。「月よ高みに昇り給へ、ああ、四方を遠く照らし給へ、ぬしは市に通うらん、ああ、泥濘に足をとらるな、心しずかにせくまいぞ、ぬしの夜道に胸さわぐ」とあります。
 この井邑詞の「井邑」とは韓半島南西部に位置する百済の町です。そこには男を心配した妻がその上に立って歌ったという石が残ってます。「ぬしの夜道に胸さわぐ」の「ぬし」は「おぬし」のぬしで、あなたという意味ですから、つまり自分の夫が夜道を歩いているのが心配だというのです。「ぬしは市に通うらん」とありますから、女の夫は行商人です。また女は「月よ、四方を遠く照らし給へ」と祈っています。
 これは「井筒」の女の歌とそっくりだと思います。「井筒」の男も行商人でした。どちらも男は遠くへでたままになっている。どちらの男の道も月に照らされていて、女は月になったようにして男を空からみている。韓国文学を研究する梅山秀幸さんも、「井筒」と「井邑」は同じ歌ではないかといいます。
 これについては私たちの本で辻浩和さんが詳しく説明しています。つまり、奈良時代、「踏歌」という韓国に由来する舞踏が流行しました。七世紀の末に韓国の北の白村江で、日本・高句麗の連合軍が唐・新羅と戦争をして大敗北を喫しました。その結果、百済の王族と貴族、そして庶民も含めて数千人の単位で百済の人たちが亡命してきました。こういう中で、宮廷の舞踏会ではしばしば百済風の踏歌が舞われました。桓武天皇の母が百済の王族であったこともご存じと思います。いわば奈良時代は政治も文化も「韓流」だったということです。
 この踏歌で歌われた歌が、井邑詞だったのです。そもそも百済の歌謡で題名だけでなく歌詞が残っているのはこの井邑詞だけです。韓国は大陸や日本の仕掛けた戦争や文化破壊・文化支配によって歴史史料の残りがよくないのですが、そういう中で、井邑詞は歌い継がれて奇跡的に残った歌です。有名な歌であったに違いなく、おそらく奈良時代の日本でも歌われていたろうというのが辻さんの想定です。
 踏歌というのは「踏む歌」と書くことでわかりますように男と女が並んで、大地をゆっくりと踏む舞です。古くから日本にも同じような野外舞踏会がありました。歌垣といいますが、踏歌はこの歌垣と結びついて広がりました。人々はいわば「月がでたでた、月がでた。よいよい」という盆踊りを踊っていて、そこでは百済と日本の人々が一緒だったのです。百済と日本の関係が深かったことは明らかで、私は韓国の「井邑」という地名の語源は井戸だったのでしょうから、「井邑」には「筒井筒」と同じような「井戸」があり、幼い二人の初恋の物語も同じだったのかもしれないと想像しています。『伊勢物語』の筒井筒の物語が百済由来であったなどといいますと、国文学の人に何と言われるかわかりませんが、井邑詞が奈良時代の日本で流行っていたとすれば、その可能性はあるでしょう。
 流行の中心は宮廷のある大和です。とくに「井筒」にでる竜田山とその南の二上山(にじようさん)の東の麓、奈良側に位置する広瀬の村は大和の月の名所でした。広瀬には広瀬神社という神社がありますが、天武天皇の時代に盛んだった広瀬祭の祝詞によれば、この神社は月の神社でした。また聖武天皇の時に「広瀬」で正月の満月のころ踏歌の宮廷舞踏会が開かれています。
 そういう雰囲気の中で「竜田山 夜半にや君が一人行くらん」という筒井筒の歌物語がうまれたのでしょう。なおこの広瀬という村の近辺は、今でも「かぐや姫の郷」といわれるように『竹取物語』の舞台です。そうだとすると月の物語・『竹取物語』が生まれた条件に広瀬の踏歌と「井邑詞」があったことになります。日本の文学というのは『伊勢物語』と『竹取物語』から始まったわけですから、これは重大なことです。
能と東アジア芸能史
 この時期、韓半島と日本列島の社会はまだまだ相互入り組みの状態で、広く深い文化の共通性がありました。言葉も相互理解が簡単だったようです。私は民族主義者ですが、民族とは隣り合う民族が影響しあう中でできてくるもので、本来は対立的なものではなく、相身互いのものです。もちろん、この時代、中国では唐帝国が成立し、東アジア全域に戦争が拡大しました。その中で日韓の民族の間にはむずかしい問題が生まれ、その文化もはっきりと違う方向に歩み始めました。
 しかし、芸能をとればその共通性は依然として高かったと思います。私たちは、これを考えるために東アジア芸能史の野村伸一さんに研究会への参加を御願いしました。その結果、『能楽の源流を東アジアに問う』は、野村さんの論文を中心として東アジアの芸能が共通性をもちながら相互に影響しあい、その中から日本の能も生まれてくる大ざっぱな枠組みは提示できたと思います。能というともっぱら「日本的なもの」と、普通、いわれるのは思い込みにすぎないのです。
 さらに韓国の農楽の芸能者として出発して、インドから伊勢の神楽まで民族芸能を広く調査している神野知恵さんに参加をいただき、日韓の芸能交流という画期的な試みに対応しようとしました。今日、神野さんがその一員となって舞う韓国の農楽は日本でいえば田楽にあたるものです。日本の室町時代には能と田楽が寺院や神社で競うように上演されました。能は活動的でエネルギーにあふれた田楽の流行の中で演じられたからこそ、逆に「幽玄」なものだったのだと思います。今日の日韓競演からは、それが実感できると思います。そういう意味でも、私どもは「望恨歌」が日本の各地で公演され、さらに韓国でも日韓芸能の競演として上演されるようになってほしいと考えています。
「恨みの砧」
 さて、自分たちのことを述べてしまいましたが、能の話に戻り、「砧」と「望恨歌」の関係について、私たちの本での竹内光浩さんの説明を紹介します。
 そもそも観世寿夫(ひさお)さんによれば、晩年の世阿弥は「井筒」の完成した夢幻能の様式をみずから破って「砧」を作りました。「砧」は夢幻能の到達点である「井筒」を突き抜け、それを「却来」、つまり「究極まで達した後に下位にまで戻る」という禅宗の精神で書かれたものだといいます。能の理論に通じていた多田さんは、この観世寿夫の議論に従って、「砧」を「望恨歌」の本説としたに違いありません。「望恨歌」の最後の部分はほとんど「砧」を下敷きとして書かれているのです。
 ただ、「砧」はたいへん解釈がむずかしいとされます。普通は、九州芦屋の女が都に土地の権益をめぐって訴訟にいった夫が三年も帰ってこないのを怨んだ嫉妬劇であるとされます。自分の侍女あるいは都の女を愛人としたという嫉妬から、女が悶死したというのです。しかし、これはあまりにも俗物的な解釈です。竹内さんはそうではなく、観世寿夫がこの能を「人間であること自体に関わる苦しみ」を描いたものといっていることを前提に、粟谷(あわや)明生(あきお)さんの意見にそって、これは二人の家庭を襲った不条理への歎きという意味であることを詳しく説明しました。
 この能のクライマックスは、女が苦しみの中で「恨みの砧」を打つ場面です。しかしこの「恨み」は男に対する嫉妬という単純なものではなかった。むしろその歎きは女自身が地獄に落ちざるような強く奧深いものでした。妻の死を聞いて夫は急ぎ帰国します。そして夫が読む法華経を受けとめて女は成仏はしますが、それでも運命のちょっとした躓きの悲哀は消えないのです。

「恨みの砧」から「恨(ハン)の舞」
 多田さんは、「井筒」から出発して、このような「砧」の趣旨を見届けたのでしょう。多田さんは「望恨歌」でこの「恨みの砧」という言葉をそのまま使っていますが、その「恨み」を韓国語のハンと読んでいます。つまり、多田さんは世阿弥が表現した「人間であること自体に関わる苦しみ」は韓国語ではハンと表現することができると考えて、世阿弥の「砧」を「望恨歌」の本説としたのです。
 ご存じのように「望恨歌」は北九州の炭鉱に動員されて死んだ男が残した手紙をお坊さんが、男の妻に届けに行く話です。お坊さんが戸を叩いても老婆は最初会おうとしませんが、手紙があると聞いて、老婆はさすがに戸を開けて、その手紙を手に取ります。そして夫の筆跡をみて思わず「イゼヤ・マンナンネ」(ああまた再会できたとは)とつぶやきました。謝罪や償いどころか、夫が本当のところどうなったのかもわからない、そういう人生の辛い諦めの気持ちの下から、ここで男の記憶が一挙に蘇り、忘却を強制されていた時間の長さが自覚されます。
 この場面は満月の光に照らされています。つまりワキのお坊さんは「折しも秋夕の魂祭」、つまりちょうど旧暦8月15日の満月の夕方から夜に老婆と向きあうのです。秋夕は日本のお盆と同じく、戻ってくる死者の魂を迎える祭です。老婆は月光の下で僧侶に酒を勧め、自分では「砧」を持ちだして打ちながら自分を静めようとします。しかし、それでも気持ちは静まらず、老婆は「恨(ハン)の舞」をまったのです。
 この月の風景は「井筒」や「砧」に共通するものです。しかし、「望恨歌」には「去年の涙ぞ今日落つる」という悲しみの慟哭が老婆を襲うだけで、「井筒」や「砧」とは違って男と女の許し合いと男が幻想の中でも戻ってきて憑依することはありえません。男の死は「井筒」や「砧」とはまったく異なって、日本国家による戦争動員という国家による強制の中での死だからです。ここには救済不能の歴史の過去が顕わになっただけで、男は老婆に憑依しないという絶望的な寂しさです。
 それゆえに、老婆は「この恨み尽くるまじ。忘れじや、忘れじ」という「恨(ハン)」を語り、ワキの僧侶は「かかる思いはまたあるまじや。忘れじや、忘れまじ」と誓うほかないのです。しかし老婆には絶望が憑依した訳ではありません。老婆はもう個人的な絶望を通り過ぎています。この「恨」は韓民族の一世代全体に日本がもたらしたものです。それでは夫の手紙をみたとき、老婆に何が憑依したかといえば、韓国に対する日本の不法と戦争の時代という過去の全体が取り憑いたというべきでしょう。いわば「歴史が憑依した」のです。おそらくこれは能の歴史劇としての本質に関わるのでしょう。
 この能「望恨歌」の上演の場面に立ち会った方々には、同じように歴史の厳粛な事実と時間が憑依してくるでしょう。私は、そこから新しい東アジアの芸能と文化が芽生えてくることを確信します。

参考文献
野村伸一・竹内光浩・保立道久編
『能楽の源流を東アジアに問うーー多田富雄「望恨歌」から世阿弥以前へ』(風響社、2021)
保立道久『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書、2010)
保立道久「月の神話と竹」(ジブリ『熱風』2013年12月)
梅山秀幸「井邑詞と『伊勢物語』の井筒」(桃山学院大学総合研究所紀要』39巻3号
『観世寿夫著作集一 世阿弥の世界』(平凡社、1980)
成恵卿『西洋の夢幻能』(河出書房新社、1999)

『続日本紀』天平六年二月朔条、「広瀬曲」

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