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優しさを受け取る余裕

子どもの滞在許可証(ビザ)の手続きにいったときのこと。

事前に、「手続きをするためにここにいってね」という手紙がくるのだけど、なぜか家族内でも都度、プロセスや場所が微妙に違う。本当にややこしい。

今回案内された建物は、よく行く居住エリアのメインの市役所ではなく、施設内に入ってからもどこにいけばいか手間取った。

どうやら1階から手続きを行うフロアにあがるにも整理番号が必要で、警備員のような制服を着た人が、付箋に番号を書いて無造作に配っていた。

「58」を渡されて待合のベンチにいくと、ガタイのいい黒人のお兄さんが「何番?」と聞いてきた。

「58」と答えると、「これやるよ」と言って「44」の札をくれた。ちょうどそのとき、35~45の番号が係員に呼ばれていた。

「呼ばれたから行こう」と言われても、そのまま受け取っていいものか、夫も私も戸惑っていると、「とにかく一緒に行こう」と強引。エレべーターフロアでまだ迷いながら「58」の紙を持っていると、「見られたらややこしいから」と取られてしまった。

大丈夫かな・・とドキドキしつつもそのままフロアを上がったら、要件を説明して各手続きの順番札をもらうための、また待ちの列。

どうやら先程の番号は本当にただの整理札で、お兄さんと一緒にいた女性(奥さんらしき人)が受け取ったものの、不要になったので譲ってくれたらしかった。

番号をスキップしたことを突っ込まれることはなさそうだとほっとしていたら、お兄さんが私たちの方を振り向き、「これがアフリカンマフィアね」と言って、ニカッと笑った。

朝8時過ぎには着くようにいき、その日の所用を済ませて建物を出たのが9時半ごろ。他にも待ちの方がいたので申し訳なさもあるけれど、正直、生後3ヶ月の乳児連れには助かった。

警戒心が勝ることもあるし、いつもこういう場面で相手を信用するべきとも言えない。けれど、今回は行政機関の中だし、変なことにはならないだろうと判断した。一方で、お兄さんの親切をすぐに「ありがとう」と受け取れずに少しでも訝しんでしまったことを、あとから申し訳なく思った。

・ ・ ・

外国で暮らしていると、過分に神経を張っていることもあるから、急にはそれを緩めることができずに疲れることも多い。

そして、誰かの優しさを受け取るにも、それを次の人につなぐにも、どこか余裕がないと難しい。

きっと、巡り巡ってくる誰かのやさしさは、素直に受け取れるようになったほうが、いい循環の中でうまく暮らしていけるんだろうな。

ドイツで子どもを連れて街を歩けば、たいていの人は笑顔を向けてくれる。駅の階段でサッとバギーを持ってくれるし、レジの順番を譲ってくれたり、すれ違ったときには「かわいいねぇ」と声をかけてくれる。(移民手続きや行政サービスはイライラすることが多くうんざりもするけれど、市井の人はとても優しい)それでこちらも嬉しくなるし、その気持ちをまた他の誰かにつなげていこうと思える。

そういう良い循環を知ってから、ときに日本で起こる子どもに不寛容なニュースを見るたびに、「優しくされること」の経験が足りない、優しくされることに社会や大人が慣れていないのでは、と思うようになった。

受け取る側としても、特に外で子ども連れだと、あれやこれやと周囲に気を張っていたり気を配ることがいっぱいで、思いがけず降ってきた優しさに気づく余裕がない。ふいに提供される優しさを受け取りなれていないから、周囲にもそれを渡していけない。とても難しいことだけれど。

幼い頃の挨拶とおなじで、慣れてきた学校の先生や近所のおばちゃんから「おはよう」と言われれば、すんなり「おはよう」と返せるけれど、まだあまり知らない人からだったり、慣れていないうちは、なんだか気恥ずかしくてうまく声に出せない。こちらでふいに受ける見知らぬ人からの優しさは、時にそんな感覚を思い出す。

もっとうまく優しさを受け取れるようになりたい。

そうして、次のだれかにも、自然に渡していけるように。



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