2015年 5月20日

最近、よく思う。
自分が子供の頃に聴いていた歌なんかのこと。
小学校の頃は、レコードなんて数枚しか買わなかった。
つか、買えなかった、のほうが正しいか。
お年玉をもらった正月明け、レコード屋さんに走った。

中学生になった頃から、とにかくおこずかいを貯めてはレコード買ってた。
高校生になってからは、参考書代やらなんやらもレコードにつぎ込んだ。
喫茶店でバイトして、レコードばっかり買ってた。
映画も観たが、映画館の息子から招待券もらって観てた。
ライブのチケットをさばいては、タダでライブも観てた。
勉強はしなかったが、遊びには熱心だった。

あの頃から少しづつ増えていったレコードたち。
気が付くと、おそろしい数になっていた。

たとえば今、CDラックに目をやると、ものすごい数のCDもあるけれど。
レコード、ってのは特別なんだ。

最近、音楽関係の番組に呼ばれたりするようになった。
たくさん聴いてきた音楽たちが、自分を助けてくれている。
中学の時からずっと聴き続けてきたレコードが、今の時代でまた歌う。

途方もない時間をレコードと共に過ごしてきた。
それは自分にとっての勉強でもあったのだと思う。
絵や写真や、創作に関わることすべてに、その時間の蓄積が影響している。
影響している、というよりは、助けてくれる、手を貸してくれる、だな。

子供の頃から、自分で勉強してきたってことだ。
学校で習ったことなんかじゃなくて、ひとりで自然に学んだことだ。
それが、自分の表現に幅を与えてくれていると思うのだ。
幅、というか・・・やっぱ幅か・・・。

美術を勉強するようになってから習うものは、大体みんな同じだ。
もしかしたら感性さえ、学校で習うものになってるのかもしれない。

僕は、子供の頃から音楽が傍にあってくれて、一緒に成長した。
それはとても幸運なことだった、と思ったりもする。
でも、創作活動をしている誰だって、そういう経験はしている。
自分は、小さい頃からの自分史を、創作に入れ込むことが出来た。
そうなんだ、創作に役立てられている、っとことが幸運なんだ。

今、庭の手入れをしたり、木々を育てたりしている。
制作そのものは以前ほど大切に感じられなくなった。
旅に出たり、森を作ろうとしたりしていることに喜びを覚える。
そして、レコードを聴きながら本を読んだりしている。

美術の世界というのは確かに存在している。
もちろん、自分もその中にいるんだろうけれど。
でも、その中にいるのは自分じゃなくて、作品たちなんだ。

自分が自分であることをわかりたくて、絵を描いてきた。
結果、自分をわからせてくれたのは、その絵に対するリアクションだった。

僕はここにいて、ここで生きている。
都市から離れて、ここで生きている。
街も好きだから、時々は街に行く。
人も好きだから、時々は人に会う。

知り合いは多いが、友達は少ない。
友達は少ない方が真実味がある。

20代で先生をしてた頃の生徒たちを想い出す。
あの頃の彼女のことも想い出したりする。
一緒に遊んだ連中のことも想い出す。
子供の頃の毎日も想い出している。

過去を遡っては懐かしむ。
それが、確かに自分の血となり肉となっていることを実感する。

そして、明日に目を向けるのだ。
生きているってことは、そこが大事なのだ。

そうやって暮らしている。

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