【補講②】近代の政治の概観

 三谷太一郎『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』(岩波新書、2017)という新書があります。本書の整理によりつつ、近代の政治を整理・区分してみましょう。


大雑把な見取図。各自増補すべし

政治史の整理
①藩閥
 新政府の権力を掌握したのは、薩長を中心とする戊辰戦争で活躍した雄藩でした。彼ら藩閥に対して、権力から疎外された板垣退助(明治六年の政変)や大隈重信(明治十四年の政変)らは、自由民権運動を展開して権力への再接近を試みます。彼らの運動は結果的に大日本帝国憲法の制定を促し、衆議院を舞台に藩閥政府vs民党の対立が展開します。
初期議会は両者の対立が先鋭化しますが、日清戦争時の挙国一致が戦後も継続し、民党が政府と結んで実務経験を積むことができました。1898年には、短命に終わったとはいえ大隈重信を首相とする憲政党内閣も出現します。

②政党
 大久保利通暗殺後の国政をリードした伊藤博文は、藩閥という出身を核とする政治集団は廃れ、自身の政治信条によって集まる政党が台頭すると考え、実務能力に秀でた自身の官僚集団を中核に立憲政友会を設立します(1900)。一方山県有朋は政党に対して批判的立場に立ちました。以後、伊藤の政党(立憲政友会)の系譜と山県の反政党(超然内閣)の系譜が交錯することになります。桂園時代は二代目政友会総裁の西園寺公望と、山県直系の長州・陸軍の桂太郎が担った時代であり、維新のリーダー世代からの世代交代がなされた時代でした。そして桂太郎が晩年に抱いた新党構想は立憲同志会―憲政会―立憲民政党に継承され、後の二大政党制の枠組みを用意します。
 なお重要なこととして、戦前日本の首相は衆議院の議席状況によって決まらず、首相経験者たる元老によって実質的に決定されていたことは忘れてはいけません。大衆の民意が政党政治の登場を促したことは間違いありませんが、実際には元老が民意を汲んで首相を推薦したのであり、いわば元老による政治劇場でした。こうした個人の政治バランスに依存する脆さが、政党政治の弱さに繋がります。
 二大政党制が展開した1924-32年において、野党が与党を攻撃する上で最も効果的であったのが政治的失策の指摘です。田中義一政友会内閣に対する立憲民政党の攻撃(不戦条約調印における尾崎行雄の質問「各其の人民の名に於て」文言の是非)、浜口雄幸立憲民政党内閣に対する政友会の攻撃(ロンドン軍縮条約を統帥権干犯と批判)など、政党は相手政党の揚げ足をとってみずから政党に対する不信感を国民に与えてしまいました。
※尾崎行雄の質問(1929年3月19日衆議院本会議)p13
※尾崎質問を受けた衆議院の決議案(1929年3月26日衆議院議事速記録)p62

③挙国一致
 政党政治への信頼が失われ、かわって軍部が政治的主体として注目される転機となったのが満州事変でした。若槻礼次郎民政党内閣は事態の収拾を見通せず総辞職し、中国通で知られた犬養毅政友会内閣が収拾に取り組みますが、五・一五事件で斃れました。これを受けて元老は政党による時局の収拾を諦め、挙国一致内閣を生み出します。ここでいう「挙国一致」は必ずしも軍部独裁ではなく、政友会・民政党・官僚勢力の連合によって軍部を抑えることが目指されました。
 しかし特定の権力核を持たない斎藤内閣の路線は、軍部の政治主体化を留められず、政党政治の復活は戦後を俟たねばなりませんでした。

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