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運び屋

17年ぶりにネパールのポカラに来た。ツーリストの集まるレイクサイドには、当時の記憶がまったく甦らないほど、洒落た店が建ち並んでいる。ただシーズンオフのようで旅行者の姿はまばらだ。

私は同い年のネパール人に連れられ、夕食を食べるために街はずれの人気店に向かった。彼は車イスだ。生後18カ月で患ったポリオが原因だった。未舗装路の多いネパールでは移動は難儀するように思ったが、何と彼はバイクを運転した。インド製のそのバイクには後部に大きな補助輪がついてあり、バギーのような安定感があるので脚を地面につく必要がないのだ。20年前に脚の治療のため訪れたカトマンズで補助輪付きバイクに乗る障害者を見かけて、ポカラで作ったという。

彼の運転するバイクに乗せてもらいながら、街を駆け抜けるのは不思議な気分だった。“はじめて”の街に戸惑う健常者の私は、障害者の彼に完全に頼り切り、すべてを委ねていた。一人だったら、ローカルが集まる街はずれの人気店にも行けなかっただろうし、大量の文房具を手に入れるのにも時間がかかって夕食にありつけなかったかもしれない。というか、信号も車線も無視したような渋滞路なんて怖過ぎで運転できる自信なんてない。完全敗北だ。

17年ぶりのダルバートは美味しかったが、あまりの米の量に何度もリバースしそうになった(見た目的にもリバースしてもわからないだろうし)。だから、ネパールの人たちは昼は軽く済ましての朝晩二食なのだと、少しだけ米を残しつつ得心した。

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国民の80%がヒンドゥー教のネパールでは、牛は神聖な動物として崇拝の対象となっている。だから車線も無視。逆走だってお構いなし、のはずだが、悠然と歩く牛が、少年に木の棒でケツをしこたま叩かれ逃げ惑っていた。

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ポカラから北へ山岳地帯を2時間ほど走る。景色は一変するが、売店で売っているスナックやビールは街となんら変わらない。ということはAmazonで注文しても届くのだろう。

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15歳の彼女は言った。
「ダルバートはね、スパイスのすり潰し方が命なの」
サウスポーの彼女はニンニクやら生姜やら唐辛子やらを手際よく刻むと、石板に乗せ、岩でゴリゴリすり潰した。石の装飾と化すくらい、念入りに。おそらくいつも通りに。

チキンを煮詰めるマスターに潰し終えたスパイスを渡すと、一粒だけ残しておいたニンニクをコンロでひと焼きして、またすり潰した。てっきり潰し忘れていたと思っていたのに、隠し味?

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すり潰したニンニクもマスターに渡すと彼女は「私の役目はここまでなのよ」といった具合に、釜爺のように複数の鍋を操る車いすのマスターを遠巻きに眺めていた。やがてこの旅最強、星4つ級の「トマト漬とチキンのダルバート」が出来上がった。

おかわりをねだる私に彼女はほらねと微笑みながら、少し多めにチキンをよそってくれた。

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その晩。
「あなたはネパールの食事が合うようだから、自家製のお酒もきっと気に入るよ。呑んでみるかい?」

車いすのゲストハウスのオーナーが勧めてきた。ワインのような味わいだという。嫌な予感はするが、せっかくなのでいただくことにした。ほどなく宿の隣に住むシェルパの男が、容量500ccほどのアルミ容器を運んできた。

蓋を開けてみると濁り酒のよう。浮いてる粒々は雑穀らしい。お湯を注いで5分待ってから呑むべしとシェルパの男。カップラーメンみたいだと思いつつ、もういいぞというので蓋をしてアルミのストローで一口吸う。なんとなく混ざってない気がしたが、ややフルーティで悪くない。

二口目、三口目でドンドン味が変わるぜとニヤつくシェルパ。この男ザックを背負って歩いているとよく日本人に間違えられるらしい。

確かに徐々に味が整っていくようで、度数は10度以上あるそうだが口当たりもよく、また呑み口がストローだからチビチビといつまでも呑んでいられる。ほのかに体も温かくなってきた。酒の名はトゥンバ。ネパール好きには有名らしいが、旅先ではほとんど酒を呑まないので知らなかった。

「山は寒いからね。冬になるとみんな家でトゥンバを呑んで体を温めるんだ。雑穀を発酵させてるから、お腹にもいいよ」

お湯を継ぎ足しながらシェルパの男がそう教えてくれた。お湯のポットは軽くトゥンバの倍はある。シェルパの優しさが僕の脳を弛緩させていく。トゥンバはいつまでたっても減らない。
「障害者が酒を飲んではいけないの。酔っ払ったらいけないの。僕だって酔いたいんだよ」
クダを巻き始めたゲストハウスのオーナーを背負うって二階の部屋に運び、宴は終了した。

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車いすを荷台に積み込み、山道をガツンガツンと登りながら、ようやくたどり着いた目的地。途中、運ちゃん道知らないんじゃないかと不安になるくらい道なき道を進みながら突然左折したと思ったら、いきなり現れた山間の小さな学校。この学校に来ることがこの旅、最大にしてほぼ唯一の目的。

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いくら丈夫とは言っても、こんなにかさ張るバッグを果たして喜ぶのだろうか。という不安はあったし、今もある。重すぎないか。ちゃんと使えるのだろうか。結果、お母さんがネギとか大根とか刺して運ぶのに使われてしまうのではないか、とか。

ランドセルを渡したのは貧しいといわれる村の学校の中でも、これまで支援を受けた経験がない子たちだという。先の大地震で家を失くしたり、障害があったり、カースト差別を受けていたり。みんなの前でそう認定されてしまうのはツラいようにも思えたが、男の子はみんなズボンのチャックが壊れていて社会の窓全開の子たちでは、貧困具合に大差はないのかもしれない。

もちろん先生の恣意的な選抜の可能性もある。そこはもう委ねるしかない。公平じゃない。でもこの学校のみんなに行き届いたからって、隣村の子はどうなる? そもそも学校に通えない子だっている。公平なんて無理だ。all or noting では何もできやしない。突き詰めれば考え落ちになり、身動き取れなくなる。だから開き直る。善意の押し売りだ、自己陶酔的だと言われても、だから、どうしたと。

私はネパールが大好きだし、ポカラが大好きだ。ここまでの道のりは大変だったけど、とても楽しかった。それはランドセルがあっても、なくても同じだ。たとえ手ぶらだろうと「山の小学校に行ってみない?」と誘われれば、面白そうだねとオンボロ車の荷台に乗り込むだろう。

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ポカラを発つ前日の夜。車いすに乗る友人の家でお茶を飲んでいたら、突然部屋の電気が消えた。また停電かなと思っていると、廊下からロウソクに火を灯したケーキを慎重に運ぶスパイスガールがやってきた。私が帰国する日は、ちょうど娘の3歳の誕生日なのだ。あまりの展開に驚き、思わず「私が主役じゃないけどね」と無粋なことを口走ってしまった。火を吹き消し(何年振りだ!)、スマホに娘の写真を出して、みんなでハッピーバースデーを歌い、ケーキを食べた。娘の名前の音は、ヒンディーネームでもあるらしく、ネパールやインドではよくある女性名らしい。それは私にとっては、とても嬉しい発見だった。誕生日の朝を一緒に迎えることはできないが、娘が大きくなったらこの時の話を聞かせてあげたいと思う。

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