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実話物語 捨て子 第一話

それは突然に

平成30年3月30日。
急性肝炎で入院している私は、今の季節では例年になく暖かい夜の風にあたりながら昔の事をふと思い出し遠くの光を眺めた。光は多様な動きを見せ左右に交差へと流れて行く。運転手がいるという事は…まぁいいか。

昭和56年九月六日、愛知県半田市に生を授かる。父親34歳母親19歳と時である。三十歳過ぎたおっさんが田舎の村で女子高生をナンパした話しがある。それが私の両親だ。
小さい頃はもっぱらのやんちゃ坊主だがいつも泣いていた。ちなみに頭も丸坊主である。昭和の男の子といえば大体が同じ髪型な思い出がある。自宅から幼稚園までは約2キロメートル離れた場所まで一人で登下校していた。なぜ1人なんだっけ?あぁ、家が貧乏で母親が働いていたんだ。一見聴こえはいいが共働きではない。父親はメニエール病で働け無くなりアルコールとギャンブルにはまって、お金がない時は家で寝ている。私が幼稚園から帰って来て起こそうものならぶん殴られるという訳で、そっと玄関を毎日開けていたのを思い出す。そんな父親も三ヶ月前に死んだがそれもまた壮絶なので後ほど話そう。
当初は父と母、そして幼き私の三人でトラックに乗り配送の仕事をしていた。私が幼稚園に行くようになる頃、母は牛乳宅配と保険代理店の仕事をするようになった。それと同時に父の酒とギャンブルも酷くなる。
当時私は母の仕事によく着いて行ったが、まぁモテる。二十半ばの保険販売員なので言うまでも無い。私は良くホテル裏で車の中で二時間ほど待たされ中日ドラゴンズのテーマ曲を永遠リピート聴いていた。こういった記憶は一生消えないものだ。今でも歌えるが自慢にもならない。その後2年経ち、父が消費者金融からお金を借りてギャンブルと酒を浴びるようになった。よく聴く話しだ。だが私の父は狂っていた。当時二十六歳の母親も真っ裸にし、家の外に放り出したのだ。許しをこう母をやっと部屋に入れたと思うと今度は母の全身を殴り悲鳴と呻き声で団地中に響き渡った。七歳の私には衝撃的な事だがこれが日常化して行った。
ある朝、父の母へ対する暴力の後パチンコへ行く事になった。父がパチンコをしている間私は母に「逃げよう。」と言われ車に乗せられ母の知り合いの家に2日間居候させて頂いた。その後は母の保険販売員であるお客様と言うべきか愛人と言うべきか言葉に悩むが男性が勤務する社宅を一週間ほど無断で使用させてもらった。
その後場所を離れ安城の町へ移り、住み込みのスナックで母は働くようになった。ひと肌が寂しいのか母親はお客と朝まで過ごし夜は家に帰らない日々が続いた。
突然やって来た悪魔の日。父と母はすでに知人や祖父母を通して離婚の話しを進めていたのだ。

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