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どなたかの左足を移植してもらった夢

何らかの理由であたしは左足を失った。そこで誰かの左足を移植してもらい、無事に私は左足を再び手に入れた。のだけど、その足は当たり前だけど私の足ではないことに、さみしさを感じている夢だった。私はこれまで私の足を大事にしてきたかな?当たり前に自分の足だと思うことは、そのありがたみを忘れさせる。

私は自分に不十分感をどこかに感じいていて、このままではいけない、なんとかしないと、と焦って生きているところがある。気持ちばかりが急いている。私よ、いったい何者になろうというのか。

そんな中、SNSで見かける周りの人たちの活躍ぶりがまぶしすぎるし、それに比べてあたしはなにやってんだか、いいの?って思う。人と比べることに意味なんてないとは思うけれど、それでも自分が周りと違うと思えば凹んでしまう。今のあたしはみにくいアヒルの子だ。

かといって、毎日下を向くような生活をしているかといえばそうでもなくて、今の生活はこれはこれで満足しているところがある。可愛い天使のような子どもたちをゆったりと毎日を満喫して過ごして幸せだ。だけど、どこかにもどかしさとか、これでいいのかな?というような気持があるんだよね。
目下の目標である英語もボチボチ頑張っているし、英語の会話も少しずつ聞こえるようになってきているし、きっと成長はしている。やることもやっている。こんな風にやれていることをみてあげるだけでいいのだろうか?

周りの人たちがすごいなあと感じて、じゃあその誰かの人生を生きることになったら満足なの?というのが今回の夢の意味だったのかな。誰かの左足をくっつけてもらって、それが私のしたいことなの?私で生まれた意味をもう一度よく考えてみて、というメッセージなのかな。朝起きて、異様に人差し指だけ長い自分の足を見て、ホッとしたのも事実で、私は私であることが一番いいし、それ以外ありえない。ほかの誰かをうらやんで、自分であることをなおざりにしていては、元も子もない。少し変でも唯一の自分、他に何を望むのだ?という問いかけの夢だったのだろう。あたしはあたし。当たり前中の当たり前だけど、その当たり前のことにありがたみを見出し感謝することで、自分が充満していくのかな。ちっぽけすぎてむなしいな。自分を認めることって意外と難しいんだな。

そんな自分が今の自分。まあいっか。今日も楽しく過ごすことにしよう。

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