自分らしくって?

自分らしくあるっていうのはいったいどう状態なんだろう。どこまでも自分を認めていった先に残るのが自分らしくって状態なのかな。日本で生まれ日本で育った日本人のあたしが、もしもブラジルで生まれ育ったとしたら、私は今の私とは全く違う私になっていただろうと思う。そう考えてみると、そもそも日本に生まれたという時点で私は日本仕様バージョンの「自分らしさ」になる。でもブラジルバージョンの私と日本バージョンの私を比較しようとしてもそれはとてもナンセンスなこと。なぜなら、私の根っこは日本という国にあるし、ブラジルに生まれた時点でそこが根っこの私は私ではないからだ。

私っていうのは根っこが作り上げるのか、それとも根っこからでた先の環境によって作られるのか?こんな話の真実なんてわからないけど、どっちもそろっていて私という存在になると思う。だから、自分の生まれや育ちを悔やむのは、自分自身の存在自体を否定するのと同じこと。そこに生え、そこで育った木はそれをそのまま受け入れて、そのまま育つ。私も自然の一部であるならば、そのようにあるはずなんだろう。でも人には意思があるよね?木にも意思があるのだろうか。木はただ生きるということを懸命にしているような印象を受ける。途中でフェンスにさえぎられようとそれを突き抜ける強さがあるし、切られたとしてもまた新たに芽吹く。そこに意思はあるのかわからないけれど、生きることには忠実だ。

人は例えば遮られたときに、右にも左にも進む意思を持つ。それは自分の意思で決めているような感じがするけれど、草や木が太陽の方へ向かっていこうとするように、人にも何かしらのプログラミングがされているのだとしたら?そこに意思はあるような気がしているだけでプログラムされた通りなのかもしれない。そしてきっと太陽のようなものの方へ向かっていくのがどの人にも共通の自然なあり方なのだと思う。そして人はそれを愛と呼ぶ。ちょっとくさい感じするけどほんとにそうだと思う。

何かを判断するときに、得するとか、楽だとか、わくわくするとか、怖いからとか、全部自分の気持ちがベースになっているよね。それは危険すぎるからやめとこうとか、楽しそうだからいこうとか、でもそれ全部プログラム通りだけどねってことなのだとしたら、どうだろう。あたしは全部決まっているって考えるのが気持ちもリラックスできるし好きな考え方。だから安心していい。すべてはいいようになるようにできてる。だから自分の思った通りに行動するだけでOKだ。

不思議とこれまでの人生でこうすればよかったーって悔やむようなことはない。きっとどんな選択にも自分で決めたと思っているからなのだと思う。人は間違うこともある。だけどいつだってやり直せる。私たちはいつまでも進化系だ。そして私たちは太陽(愛)の方へ向かうようにできている。人類への信頼は自分への信頼でもある。だから未来が決まっていようがいまいが、これからも続く人生を気ままに楽しく進んでいくだけでいい。そしてその未来はなるたけ楽しくて明るいものである方がなおよい。だから妄想だけはたくましく、考えうる限りの楽しいイメージをしておきたい。それはそれ自体が楽しくもあり、あたしの未来予想図でもある。だからどんな自分だろうが、したいようにやりたいようにやるだけ。大舟に乗ったつもりで自分らしさなんて気にすることもなく好きなようにするのが、結果自分らしいってことなのかもしれないな。

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