見出し画像

私をいかす言葉

「あなたのピアノは明日の活力になる」


ピアノを弾くことが好きだった私は、学生時代、素敵な出会いに恵まれて飲食店や公共の場でBGMを演奏する機会をいただいていた。

私のピアノは、趣味の範囲だ。専門ではない。
学校はもちろん音楽専攻ではなかったし、大学の頃のピアノは完全に独学だった。自分のすきな曲を弾いていたら自然とレパートリーが増えていったという具合だ。とにかく「好き」の気持ちだけが原動力で、それで成り立っていた。

単純に楽しかった。
30分や一時間という限られた時間をもらって誰かの空間に入りこめること。
演奏が始まると興味深そうに見入ってくれる子どもや、にこやかに聴いてくれる人が一人でもいるだけでうれしかった。
ピアノを弾くだけでこんなに楽しいのに、誰かに聴いてもらえるという幸せ。小さい頃にブライダルプレイヤーに憧れていた私だが、その夢がこのような形でかなっている幸せ。
とにかく楽しくて、いつもワクワクしていた。

ただ、劣等感や不安も同じくらいあった。
こんなんで良いのだろうか、自分のレベルで誰かを満足させることができているのだろうかという不安。夢中になればなるほど、技術面や表現の力不足、音大に通っているわけでもレッスンに行っているわけでもない自分の浅さがいつもどこかで気になっていた。きっと、というか絶対、私よりも良いステージにできる人はたくさんいる。私よりももっと集客できる人はたくさんいる。回を重ねるごとに、楽しさと同じくらい不安と焦りでいっぱいになっていた。

そんなある日、ショッピングモールで演奏をするチャンスをもらった。
そこで演奏を聴いてくれた年配の男性が、終了後に私のもとに歩み寄ってきて、こう言った。
「あなたのピアノは明日の活力になる、いつもありがとう」と。
その男性は、以前カフェで演奏した時も熱心に聞いてくださっていた方だった。わざわざ、今回も足を運んでくださったのだ。その人の言葉と柔らかな笑顔に胸が詰まって、何も言えなくなって、絞り出すようにどうにか「ありがとうございます」と伝えた。

もし私のピアノがその人の明日の活力になっていたら、それほど幸福なことはない。私はそれまで、好きだからという理由だけでピアノを弾いてきた。そりゃあ、誰かの疲れを癒したり慰めたりできたら良いなあとは思っていたけれど、それはあくまで受け取る側の感情や捉え方であって、それを常に求めだしたらきりがないこともわかっていた。誰かの何かになりたい。誰かの役に立ちたい。誰かを幸せにしたい。そう思えば思うほど、理想に近づけたいと焦るほど、それは実現できないものだと薄々気づいていた。

だからこそ、その人が「明日の活力になる」と言ってくれたことは、思いがけない出来事だった。
そして、その言葉は確かに私を今でも生かしている。
辛くても、仕事にどうしても行く気になれない日でも、悲しい夜でも、誰かを明日に近づけることができたという自信が、私を生かしている。私の心は、その男性に救ってもらえたのだ。誰かの役に立ちたい、誰かを幸せにしたい、そうじゃなくって、気づかないうちに私がたくさんもらっていたのだ。


「あなたのピアノは明日の活力になる」

その言葉こそが、数年経った今でも私の明日への活力。
良ければまたいつか聞いてください。その時は、あなたのリクエスト、たくさん弾きますね。



ゆっくりしていってね