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【アーカイブス#73】ジュリエット・グレコの『メルシー』*2016年1月

 ここのところリスペクトレコードから送ってもらったジュリエット・グレコの二枚組のベスト・アルバム『メルシー』の二枚の白盤のCDばかり繰り返し聞いている。白盤というのは音楽業界の言葉で、まだ商品のアルバムができる前、その正式なサンプル盤もできる前、いち早く放送局や雑誌やライターなどに配るCD-Rの音源サンプルのことで、盤の表が真っ白で何も印刷されていなかったりすることもあるから、いつの間にか白盤という呼び名がついてしまったようだ。
 ジュリエット・グレコの『メルシー』も発売日は2016年2月24日で、それよりもひと月以上も前にリスペクトレコードはぼくのもとにその白盤を送ってきてくれた。これが「究極のベスト・アルバム」、「オールタイム・ベスト」と宣伝資料のリーフレット(これは音楽業界用語では宣材
と呼ばれている)に書かれているようにほんとうに素晴らしい内容のベスト・アルバムで、1951年から現在まで時代順にグレコの歌を全38曲聞くことができ(日本盤のみ2曲のボーナス・トラックが収められている。フランスのオリジナル盤は全36曲)、彼女が歩んだ65年以上にも及ぶ音楽人生を、とても駆け足ではあるが辿ることができる。そしてその凄さ、深さ、厳しさ、重さに、ただただ感動してしまうのだ。


 今回はぼくの歌の偉大なる“ティーチャー”としてジュリエット・グレコを取り上げたい。1960年代前半、ぼくがまだ中学生だった頃、ぼくを音楽の世界へと強く引きずり込んだのはアメリカのフォーク・ソングやカントリー・ミュージックだったということは、これまでいろんなところで繰り返し書いている。もちろんそれは事実で、もっと厳密に言えばぼくはアメリカやイギリスのフォーク・ソングとの出会いによって、もっと限定的に言えばアメリカの偉大なフォーク・シンガー、ピート・シーガーとの出会いによって、自分もフォーク・シンガーになりたい、自分も歌を作って歌いたいと、曲作りを始め、高校生の頃には人前で歌うようになり、それから紆余曲折はあったものの、ほぼ50年後の今もまだ曲を作り、人前で歌い続けている。

 そんなぼくがいちばん影響を受けた音楽はアメリカやイギリスのフォーク・ソングに間違いはないが、フォーク・ソングに夢中になり、人前でも歌い始めた1960年代の後半あたりから、フォーク・ソングと同時にフランスのシャンソンにもよく耳を傾けるようになった。どちらの音楽にも言葉を大切にし、メッセージを重んじるという共通項があったし、実際にアメリカやイギリスのフォーク・シンガーがシャンソンを取り上げたり、シャンソンの影響を受けたり、シャンソンのミュージシャンたちと交流があったりして、それでぼくもシャンソンに強く興味を覚えるようになったのだ。

 ジョルジュ・ブラッサンス、レオ・フェレ、イブ・モンタン、シャルル・アズナブール、ジャック・ドゥーエ、ムルージ、ジュルジュ・ムスタキ、セルジュ・ゲンズブール、ジャック・ブレル、エディット・ピアフ、バルバラ、フランソワーズ・アルディ、そしてもちろんジュリエット・グレコなど、当時よく知られていたシャンソン歌手のアルバムをぼくは次々と手に入れて熱心に耳を傾けた。時代が1960年代から70年代に移っても、ピエール・バルー、イヴ・シモン、ジャン・ロジェ・コシモン、ブリジット・フォンテーヌ、アレスキー、ジャック・イジュラン、デヴィッド・マクニール、フィリップ・レオタール、ヴェロニク・サンソンなど、次々と登場してくるフランスの新しいシャンソニエたちを追いかけ続けた。
 もちろん今現在もシャンソン対するぼくの関心は薄れてはいない。コンテンポラリーなフランスのは歌い手たちでは、トマ・フェルセンや、サンセヴェリーノ、カミーユ、ZAZなどがとてもお気に入りだったりする。
 それに実際に活躍している時にはまったく知ることがなく、2008年に『フランソワ・ベランジェ・トリビュート〜これらのひどい言葉〜』というトリビュート・アルバムが日本でもメタ・カンパニーから発売されて、没後に初めてその存在を知り、後追いで次々と本人のアルバムを買い集め、その世界にうんとのめり込んでしまったフランソワ・べランジェというシャンソニエもいる。ベランジェはメッセージ色の強いシャンソンを多く歌い、反体制派の歌手とされたが、2003年に56歳の若さでこの世を去ってしまった。『フランソワ・ベランジェ・トリビュート〜これらのひどい言葉〜』は、現在メタ・カンパニーから廉価盤が再発売されていて、税抜き1000円という安価で手に入る。絶対のお薦め盤、お買い得盤だ。

 ただぼくはフランス語がてんでわからず、まだ何とか太刀打ちできる英語の歌とは違って、シャンソンの場合は言葉の壁が大きく立ちふさがってくる。フランス語の歌を聞いて、ただその雰囲気に浸ったり、ムードに酔えばいいというのと違って、ぼくは歌われている歌詞の意味がどうしても知りたくなる。というかそれを知ってこそ初めてその歌を聞いたことになる。だからこの壁の高さというか、ハードルの高さはかなり厳しいものがあり、フォーク・ソングのように心底親しめないところがシャンソンにはあったりする。フランス語を勉強すればもっと近づけるのだが…。

 あまたといるシャンソン歌手、自分で歌を書いて歌うシャンソニエたちの中で、ぼくがいちばん好きなのは誰かと言われたら、それはジャック・ブレルということになるだろう。1950年代前半に生まれ育ったベルギーのブリュッセルからパリへと移り住み、1954年に初めてのアルバムを発表し、「愛しかない時」、「行かないで」、「アムステルダム」、「老夫婦」といった名曲の数々を次々と生み出し、絶頂期の1968年にステージからの引退を宣言、そして1978年に49歳の若さでこの世を去ってしまったシャンソニエだ。
 ジャック・ブレルの歌、その生き方、その姿勢、その全力投球ぶりに、ぼくは強く心を奪われた。そして手に入るブレルのアルバムはすべて買い集めた。60年代後半から70年代前半、日本ではまだまだ世界中のいろんなレコードがきちんと発売される時代で、ジャック・プレルのアルバムも日本フォノグラムやキング・レコードから発売されていた(彼はフィリップス・レコードや日本ではキングが販売権を持っているバークレー・レコードからアルバムを発表していた)。

 ジャック・ブレルというフランスの歌い手の存在そのものは、ぼくは早くから知っていたと思うが、彼がどんな歌を作って歌っているのか、彼がどんな歌い手なのかをきちんと知ったのは1960年代の終わり頃だった。それをぼくに教えてくれたのは、アメリカのフォーク・シンガーのジュディ・コリンズだ。彼女は1966年の『イン・マイ・ライフ』や1967年の『ワイルドフラワーズ』といったアルバムで「鳩」や「懐かしき恋人たちの歌」などブレルの歌を取り上げ、それこそシャンソンにあまり関心のなかったフォーク・ファンに彼の素晴らしさを教えてくれた。

 そしてジャック・ブレルといえば、やはりジュリエット・グレコだ。グレコはフランスでブレルの才能にいちはやく注目し、彼を世に出す上で最も貢献した人物としてよく知られている。1954年、パリのクリシー広場の映画館で、二本の映画の幕間でまったく無名のベルギー人のジャック・ブレルが歌った時、たまたま客席にはグレコがいて、その歌に感銘を受けた彼女はすぐにもブレルに会いに行き、彼の歌「OK悪魔」を自分のレパートリーに入れることを決めた。それからブレルが亡くなる1978年までの25年間、グレコとブレルの深い交流は続き、その間グレコはブレルの歌を取り上げて歌い続けた。

 話を冒頭のジュリエット・グレコのベスト・アルバム『メルシー』に戻すと、ディスク1には、コメディー・フランセーズでの舞台を経て1949年か50年頃、グレコが本格的に歌い始めてすぐの曲「私は私」をオープニング・ナンバーに、「パリの空の下」、「枯葉」、「アコーディオン」、「パリ・カナイユ」、「聞かせてよ 愛の言葉を」といったシャンソンの有名な曲の数々、そして1967年録音のグレコのコンサートでの定番曲「脱がせてちょうだい」まで18曲が収められている(日本盤はここにもう2曲加わる)。
 そしてディスク2は、収録曲18曲のうち11曲がジャック・ブレルの歌で、そのうちの9曲は2013年に発表されたばかりの大傑作アルバム『ジャック・ブレルを歌う』からのものだ(このアルバムもぼくは何度繰り返し聞いたことか!!)。そして「懐かしき恋人の歌」が1971年の録音、「マチルド」が2006年の録音となっている。

 グレコがブレルの歌だけを取り上げて歌う彼へのトリビュート・アルバムを作ったのは、フランスでは2013年のこの『ジャック・ブレルを歌う』が初めてだったが、実は日本では1989年に『行かないで/グレコ〜ブレルを歌う』というライブ・アルバムが発売されている。
 1988年秋の来日公演で、グレコはコンサートの2部はジャック・ブレルの歌だけで埋めてほしいという日本の招聘元のアンフィニからの提案に応じ、日本だけでブレルに捧げるコンサートがいちはやく実現した。その模様が収められているのが、『行かないで/グレコ〜ブレルを歌う』だ。 
 アルバム(コンサート)はブレルの曲がメドレーで演奏される12分40秒に及ぶ組曲「ブレルへの花束」で始まり(ピアニストのジェラール・ジュアニストはかつてのブレルのピアニストで曲作りにも関わり、今はグレコの夫だ)、それに続いてグレコがブレルの曲を11曲見事に歌いきっている。今ではひじょうに入手困難なアルバムとなってしまったが、ほんとうに素晴らしい内容のアルバム(コンサート)なので、見つけたら絶対に手に入れて聞いてほしいし、これだけの名盤なのだから、どこかで何とか再発売してくれないものかと強く願っている。

 2016年2月24日に発売されるジュリエット・グレコの2枚組ベスト・アルバム『メルシー』には、ディスク2の最後に新曲が1曲入っている。アルバム・タイトルにもなっている「メルシー」という曲で、2015年10月に録音されている。
 グレコはピアノとアコーディオンだけをバックに、はかりしれないさまざまな思いを込め、語りかけるように何度も何度も「メルシー(ありがとう)」を繰り返す。グレコは1927年生まれで、この曲を作り、録音した時は88歳になっている。そしてレコーディングの半年前の2015年4月に、グレコは「まだまだ歌い続けられるけど、美しく去ることも知らなくてはならない」と、コンサート活動からの引退を発表し、最後のワールド・ツアー「メルシー!」に乗り出した。

 ジュリエット・グレコの新曲「メルシー」は、ほんとうにすごい曲で、何度聞いても涙が溢れてとまらない。「メルシー(ありがとう」の一言に、65年間歌い続けた彼女のすべての思いが込められている。しかも人生の終わりに告げる「ありがとう」は、たいていは伴侶や子供たち、家族や人生そのものに向けてのものが多いが、グレコの場合は、詩や感動、ステージや道路、ホテルの部屋、割れるような拍手、アンコールに「メルシー」なのだ。
 ピート・シーガーの辞世の歌とも言える「フィールズ・オブ・ハーモニー」を初めて聞いた時と同じような大きな感動に襲われ、居住まいを正さなければならない気持ちにもさせられるのだが、感動のあまりからだの震えがとまらなくなってしまう。ジュリエット・グレコの「メルシー」からは、信念を持って歌い続けた人ならでは強さや優しさ、厳しさや潔さ、達成感や満足感、そして迷いのなさや美しさがまっすぐ伝わって来る。

 そしてジュリエット・グレコの最後のワールド・ツアー「メルシー」だが、彼女はもちろん大好きな日本にもまたやって来てくれる。
 6月1日が東京渋谷のオーチャード・ホール、3日が横浜みなとみらいホール、そして5日の午後が東京国際フォーラムホールCと3回の日本公演だ。ぼくは絶対に見に行く。これを見に行かなくていったい何を見に行くというのだ!! しかもコンサートのチケットは、S席が10000円(5日だけ11000円)。ジュリエット・グレコのラスト・ステージがこんなチケット代で見られるなんて、こんなにありがたいことはない。感謝のかぎりだ。もちろんいろんな人がいるのは当然のことだし、何にお金を使うかのかその価値観は人それぞれまったく違うとわかってはいるが、音楽を愛する人にとって、歌を志す人にとって、このグレコのラスト・ステージを見ないというのはありえないことなのではないかと、ぼくは思っている。何はさておいても絶対に足を運んでほしい。何はさておいても絶対に足を運んでほしい。

中川五郎(なかがわ・ごろう)
1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。
70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動も始める。90年代に入ってからは小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説などさまざまな翻訳も行っている。
最新アルバムは2017年の『どうぞ裸になって下さい』(コスモス・レコード)。著書にエッセイ集『七十年目の風に吹かれ』(平凡社)、小説『渋谷公園通り』、『ロメオ塾』、訳書にブコウスキーの小説『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、ハニフ・クレイシの小説『ぼくは静かに揺れ動く』、『ボブ・ディラン全詩集』などがある。
1990年代の半ば頃から、活動の中心を歌うことに戻し、新しい曲を作りつつ、日本各地でライブを行なっている。

中川五郎HP
https://goronakagawa.com/index.html

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