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東上線はなぜ東武鉄道なのか?国有化されるはずだった?その複雑な歴史をたどってみる

はじめてのnoteの記事は、普段何気なく乗っている電車の複雑な歴史のお話しです。

東武東上線は、東武の他の路線とは離れています。
なぜ東上線は東武の一部なのか?多くの皆さんが一度は疑問に思ったことがあると思います。

東上鉄道の成立と計画路線

東上線の長い歴史は、1903年(明治36年)東上鉄道が、仮免許申請書を逓信大臣に提出することから始まります。この東上鉄道は、東武鉄道とは全く関係ない会社です。

東上鉄道が申請した路線は、東京府北豊島郡巣鴨町字氷川を起点とし、日本鉄道池袋停車場〜上板橋村〜埼玉県北足立郡白子村(現・和光市)〜北足立郡大和田町(現・新座市)〜入間郡川越町〜比企郡松山町(現・東松山市)

そして、大里郡花園町〜児玉郡児玉村〜群馬県多野郡藤岡町〜高崎市飯塚〜群馬県金古町(現・群馬町)を経て群馬郡渋川町に至るものです。

しかも第2期として、新潟県長岡町まで計画しており、全長237Kmに及ぶ壮大な計画でした。

ちなみに、東上線という名前は、東京の東と、群馬県の旧国名、こうずけの国。上州の上を取って名付けられています。

この計画に対して、1908年(明治41年)巣鴨〜渋川間の鉄道敷設仮免許状が下付されました。

東武の社長を招聘

東上鉄道は仮免許を得たものの、建設資金の確保に苦戦します。
協力者が出ない中、免許取得から2年後の1910年(明治43年)6月、会社発起人総代を通じて、当時の東武鉄道社長の根津嘉一郎氏に「会社創立」を委任することになりました。どうにもならないので、プロに任せた。ということです。

東武線はちょうどこの年の3月、伊勢崎線の新伊勢崎まで開通し、翌月の7月に伊勢崎まで全通するところでした

その後の路線延長を目指す東武鉄道としても、東上鉄道と目指すところは一緒でした。東武鉄道は、1908年(明治41年)足利町から分岐して、大間々町、大胡町、前橋市と上毛電鉄沿いを経て、渋川町、そして、沼田町南西の川田村までの線路敷設願いを逓信大臣に提出していたので、東上鉄道と目指す方角は一緒でした。

ここで、東武鉄道は東上鉄道の創立に関わることになり、「東上鉄道創立事務所」を東武本社内に置き、新株式の募集に取り掛かりました。新たな株主は東武鉄道の関係者、沿線の住民以外に、渋沢栄一、福沢諭吉の養子の福沢桃介、野村證券創立者の野村徳七などがいました。

ついに開業!

1912年(大正元年)11月、東上鉄道は東京市小石川区大塚辻町〜群馬県群馬郡渋川町間に、鉄道敷設の本免許を得て、同じ月に池袋までの免許も取得します。

大塚辻町から池袋に起点を変更した理由は、この当時、池袋西口に、現在の東京学芸大学や成蹊大学が校舎を建て始め、更に立教大学が広大な土地を購入して築地からの移転を計画したりして、池袋がそれまでこ地域の中心であった目白や大塚を抜くくらいになってきたからです。

そして、1914年(大正3年)7月、池袋〜田面沢(たのもさわ)間33.5kmが開業します。田面沢は、川越市駅の北の入間川東岸にできた駅です。

なお、池袋には翌年の大正4年、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)が開業します。

東上鉄道はその後、1916年(大正5年)に川越町(現・川越市駅)から坂戸町まで9.2Kmが開業します。

ついに東武鉄道に合併!

しかし、1920年(大正9年)7月、東上鉄道と東武鉄道は合併します。東上鉄道線としてはわずか8年で消滅します。

合併した理由は「第一次世界大戦中の好景気が物価高を招き、営業費用が増大したため、この際、両者が合併して、経費節減、車両の運用面、諸設備の改善などを合理化するという経営判断が下された」ということです。

ここで、合併前の両社の経営状況を見てみましょう。

出典 東武鉄道百年史より作成

合併当時、東上鉄道の営業係数(営業係数は、
営業費用を運輸収入で割り、100をかけた数値)は東武鉄道より良く、東上鉄道の方が業績が良かったことがわかります。

何となく、東武鉄道の業績を嵩上げするため東上鉄道は合併させられたような気がします。

東上線はその後、1923年(大正12年)10月坂戸町〜武州松山(現・東松山)間9.3kmが開業。翌月の11月に小川町まで14.1kmが開業。1925年(大正14年)7月、寄居まで10.8Kmが開業します。

この時点で、寄居には秩父鉄道が来ていましたが、八高線は着工されていませんでした(八高線の着工は1928年・昭和3年)。

しかし、寄居より北は八高線が作られることになり、東上線は当初の予定の渋川には行かず、寄居でストップすることになります。

遅れる東上線の近代化


このあと、東上線の近代化は遅れに遅れます。

伊勢崎線の西新井電化が1924年(大正13年)、お隣の武蔵野鉄道・西武池袋線の所沢電化がそれよりも早い1922年(大正11年)でしたが、昭和に入ってもまだ東上線は非電化でした。

1927年(昭和2年)に東上線の電化と複線化の計画が浮上しますが、総工費3万円のうち、東武鉄道は2万円を地元自治体が拠出するように主張して、計画は暗礁に乗り上げました。

結局、複線化とは分けて、電化だけが先に行われて、1929年(昭和4年)に完成しましたが、この時には東武佐野線や桐生線は電化されていました。

加えて、合併時、東武鉄道よりも東上鉄道の方が運賃が高かったのですが、運賃はそのまま据え置かれ、1938年(昭和13年)に運賃が値下げされるまで、東上線の運賃は18年間、他の東武線より高いままでした。

愛想をつかす地元

戦争が激しくなる中、1940年(昭和15年)東上線沿線30市町村は「東上線国有国営期成同盟会」を作りました。これは東上線を国が買い上げて、鉄道省が経営することを沿線自治体が求めたものです。

こうなったのは、当時、戦時体制に入ってから輸送量が増大していたものの、東上線の輸送力増強が遅れていたという背景がありました。この時点で複線化されていたのは、池袋から志木までででした。
ちなみに伊勢崎線は館林まで複線化されていました。

そして、請願書が作られ、内閣総理大臣、陸軍大臣、鉄道大臣に出されました。

出典 富士見市市史

この請願書には沿線自治体だけではなく、貴族院議員2名、衆議院議員8名、埼玉県議会議員22名も提出者になりました。

この後1943年から44年にかけて、戦時国電買収ということで、今の南武線、青梅線、鶴見線などが次々と国に買収されましたが、東上線が国に買収されることは結局ありませんでした。

GHQにも見放される

戦争が終わり、国有化運動は無くなりました。
戦争の結果、鉄道施設は荒れ果てて、復旧する必要がありましたが、東上線の復旧は遅れに遅れます。

東上線沿線には軍事施設が多く、戦後は進駐軍が駐留しますが、GHQは東上線の各駅に「進駐軍乗車禁止」という掲示を出させました。理由は、「輸送環境が劣悪であり、安全性が保障できないから」というものでした。

戦後の東上線

このあと、輸送力増強が図られ、東武線の日比谷線乗り入れから遅れること25年後の1987年(昭和62年)東上線は有楽町線への乗り入れを開始します。

以上が東上線の簡単な歴史です。

今では立派な施設になっていますが、高度成長期までは、どちらかというと、東上線は不遇だった気がします。

もしも戦争中、国に買収されていたら、今頃JR東上線になっていたはずで、そうしたどうなっていたのだろう?今より良くなっているのだろうかと、色々想像してしまいます。

そもそも、東武鉄道に合致されていなかったら。。。

東上鉄道だった時代は短かったですが、東武の稼ぎ柱として、これからも東上線は重要路線であり続けると思います。

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