タイトル_20

あなたの美しさを納得できるものに。〜審美眼を養う〜

知人にこんな相談をされたので、自分でも改めてまとめてみようと思い立ちまして。


突然呼び出され、唐突にこんなことを聞かれました。

どうやったらアートの良し悪しって判断できるかな?


曰く、彼は根っからの理論派で、でも今後の事業展開などを考えた時に、理論的なアプローチと感覚的なアプローチができるといいと思うんだよね、とのこと。

ふむ。一理あるような無いような。


なんて思いながら、この日は丁度、私自身も美術館に行った日だったりしたので、私なりの答えを、偉そうながらお答えしました。



始める前に〜デザイナーの思考〜

なぜ私に彼が話を持ちかけたのかというと、結論、手近にアートに関連する人がいなかったから、ということらしいです。

確かに、私は、高校時代からデッサンや色彩構成等の基礎をし、大学は芸術大学に進学し、歴史や理論の勉強と合わせ、実技も行ってきた、青春全て芸術系に捧げたような人間ですが、ここで思い違いをしてほしく無い点が一点。


私、感覚で生きてません。判断は大体論理に基づいています。


この彼始め、多くの人が勘違いしている点ではあるのですが、デザイナーはアーティストではありません。

アートを志して、その道のりからデザイナーになる人の比率は比較的多いのでしょうが、デザイナーは概ね全て論理的な思考で持って物事を判断しています。

論理的思考で要素の選択や組み合わせを判断し、決定します。そこに、感覚的な「かっこいい」だの「かわいい」だの「イカしてる」だのの判断も入ってきますが、それは判断の全体の1割程度です。



アートは自己表現、デザインは他己表現。

アートとデザインの違いは何か。双方、歴史のある分野ではありますが、やはり、考え方と方向性が違う、と私は考えています。

アートは自分の中に表現したいものがあり、それを突き詰めていくものです。つまり、表現の向きが自分に向かっています。

そして、アートが評価されるのはその完成品です。ものがあってそれをどう活用するのか、判断軸が作品にあります。


対して、デザインは、デザイナーの中に表現したいものは、行ってしまえば無いのです。

全く無いわけではありませんが、表現したい、と言う想いや考えは全てクライアントから発信されるものです。つまり、表現の向きが他人にあります。

そして、デザインは作風というものがありません。かなり有名なデザイナーや、自分で製作した作品を素材として利用している人など、多少ある人はいますが、基本的に、デザイナーはクライアント一人ひとり、案件一つひとつに合わせて表現の手法を変えます。


アートは自分の中から発信した世界を、デザインは、場面場面に合わせたその人の発信したい世界を表現するものなのです。



とにかくインプット

さて、ここから本題に入りますが、一つ目の審美眼を養うための行動は「とにかくインプット」です。

世間にあふれている作品と言われるもの全て、とにかく見ることです。

それは美術作品でも、デザイン画でも、写真でも映像でも、風景でも、物語でも。

そして、その作品のバックボーンや時代、他人の評価などもインプットするとなお良いと思います。


作品の良し悪しの判断などは、言ってしまえば、究極は自分の好き嫌いです。それ以下でもそれ以上にもなり得ません。誰かの判断軸である必要性など、全く無いのです。

しかし、それが自分だけの問題ではなく、例えば仕事上大切な、必要な判断だった場合は、自分の好き嫌いでは判断できません。

そのために、少しでも世間一般の判断基準を養えるように、その作品が一般的にどこを評価されているのか、というポイントを知識として知っておくことも大切です。

最悪納得はしなくてもいいと思います。要するに、ここでは目的にあった判断を多角的な視点で行うための判断基準、材料の引き出しを増やすことにこそ意味があるのですから。


具体例でいうと、例えば美術館に行った時は、アホのようにキャプションを読むことを推奨します。

作品の横、もしくは下に、作品名以外に文章が添えられていることがありますよね?

その作品の見て欲しいポイントや、作者のその当時の心境、状況、社会の時勢など、様々なことが知識として記されています。

また、展示は章立ててされていることが多く、第一章、第二章と、その章ごとの大きな説明文もあります。

それらを、最初はわからないなりに全て読んでみること。そうすると、今まで「なんとなく」で見ていたものが、見方を教わったり、時勢や作者の心情と結びつけてみようとし、より深く学べると思います。



自分の感覚に言語化された理由をつける

これは私が高校時代の恩師からも再三言われていたことです。

例えば街中の、駅にある広告ポスターを思い出してみてください。電車の中吊り広告でも、雑誌の広告でも、Web広告でも、なんでも。


それらに対して、多少なり「かっこいいな」とか、「ださいな」とか思うことがあると思います。

その「かっこいい」や「ださい」に、あなたは具体的かつ論理的な理由を述べられますか?


感覚で物事を判断することは意外と簡単です。自分の中だけにある自分の判断基準で好きに言えばいいのですから。

でも、そこに、誰かに「なんでかっこいいの?」「なんでダサイの?」と聞かれた時、その人にも理解できて納得できる論理で理由を述べられるかどうか、ということはとても大切になってきます。

この、誰でも「理解できて」という点がポイントです。

実際の仕事の場を想定してみましょう。

ある広告デザインで、A案とB案があります。ターゲットは、オシャレに敏感で、仕事が順調で楽しいと感じ始めた女性。美容にも健康にも興味があるような、自己研鑽意欲の高い女性向けの美容品、とでもしましょう。

チーム内で、A案とB案でどちらにしようか迷っています。そこであなたが一言、こういうとしましょう。

「B案の方がおしゃれでいいと思うんですよね〜。」

この、おしゃれ、というのはとても抽象的で非常に危うい言葉です。おしゃれの中にも、ラグジュアリーなおしゃれや、ブルックリン調なおしゃれ、オーガニックなおしゃれなど、様々あるからです。

この4文字の言葉は、人それぞれ感覚やイメージするものが違います。そのため、おしゃれだと思わない、思う、という、違っていて当たり前の感性の部分で議論が止まってしまいます。

しかし、これをもっと具体的に論理的にしてみると、

「仕事を大切にする女性がターゲットなので、派手すぎないフォーマルな色合いのB案の方がいいと思うな〜」

仕事を大切にする→派手すぎないフォーマルな色合い

ここが論理として繋がっていますよね。(よね?笑)

この方が理解ができます。そうしたところから、より良いものを作るための建設的な話し合いが展開されていくのです。



まとめ〜人を意識して、人の言葉を借りる〜

引き出しを増やす、具体的・論理的な理由をつける。この二つに共通しているのは、自分にない価値判断を自分の中に取り入れることにあります。

感覚は、何かに触れ続けないと成長しません。そして、自分の中にある要素だけで感性を磨くには、限界があります。

0から何かを創造することはとても困難です。しかし、1と1を組み合わせて、10を生み出すことは、引き出しの数があればあるほど、ハードルは低くなります。


そんな時は、人の経験や知識を拝借してしまいましょう。何も恥じることはありません。

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」と言いますし。学びたければ、審美眼を磨きたければ、最初は人の知識を借りることです。



筆者紹介

note用自画像

関西圏内でデザイナー/カメラマンとして週末フリーランスをする23歳、女。スターバックスのコーヒーを飲みながらスターバックスで仕事をするのが好き。

加えるなら、自分で創作活動をしてみることもオススメしましたが、彼はそこまでは求めていないそうです。

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