クリエイターという称号への陶酔は横に置く〜創作を巡る刺さるnote

温かいnoteを見つけた。

作家のエージェントをされている方です。
そのためかクリエイターへの視線が温かい。
他者からの評価に怯え迷い、揺れるクリエイターへ温かいエールを送ってくれています。

同じ方のこちらのnoteもクリエイターに限らず現代人が皆疲弊している「他者からの承認」より「自分の意思と承認」へと優しく背中を押す内容でした。

沁みるわ。

↓こちらも沁みる。

↓温かいけどなかなか厳しい指摘もある。
でもその通り過ぎて痛快。

↓こちらは胸が詰まる。

ああ〜こうだよねこうだよね、やっぱそうやって悩むんだよね…と我が事のように胸が痛む。

ひとつだけ気になったことがある。
それはこのエージェントの方が悪いという意味ではなく、私の心持ちの問題である。

この方の優しい視点で、でも
「本当に周囲に振り回されていていいの?創作が自分自身のカタチをはっきり認識させてくれるよ」
と優しく背中を押してくれるのはクリエイターの弱った心に非常に効くと思う。
思うんだけど、私自身がその優しさと「クリエイター」という甘美な響きに身を預けすぎてはいけないと感じた。

「私が作った作品」

「この作品を作ったのは私よ!」
では意味合いが異なると思うのだ。
それぞれの主体は最後の名詞にかかっていると思う。
前者は「作品そのもの」。
後者は「作品を作った『私』」だ。

「クリエイター」、という表記は横文字でちょっとかっこよさげな人気稼業に見えるような気がするのは私の気のせいだろうか。
例えば自己紹介で「私はクリエイターだ!」と言ったら周囲はなんかカッコつけすぎてない?と鼻白まないだろうか。

では「創作者」ならどうか。
これはこれでなかなか自己紹介では使いづらい表現である。
「私は創作者だ!」
…ダメだ、私には言えない。
そんな御大層なことはしてない。

せいぜい私にできているのは「溜まったら排泄する(描くまたは書く)」である。

だから自分は「排泄する人」である。
というのが一番妥当ではないか。

「クリエイター」「創作者」という響きに陶酔して良い排泄(作品)ができなくなるのはまずいと思う。
まあそれ以前によい作品が作れるかどうか自体が謎だけど。

なのでとりあえず「クリエイター」「創作者」という称号への自己陶酔は戒めようと思う。

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