「パクリ」と「参考」を分けるたった一つの要素〜パクリ肯定論理は鬼滅の「鬼論理」(1)

鬼滅の刃を最近読んだ。
ブーム中に読むのは冷静な評価を妨げる可能性があるので、落ち着いてから読みたい派なのだ。
感想は色々あるけど今回は鬼滅のレビューではないので割愛。

今回は「パクリ」と「参考」を明確に分けるたった一つの要素についてである。
ただし超長文なので何回かに分けることにする。


絵のフリーライドはパクリの寸止めにすぎない

過去noteではよく「(自分で獲得したわけではない技術を盛るために)手近な絵師の絵を見て描く」「絵(絵柄そのものも含む)のストーキング、フリーライド」行為への疑問などをよく書いている。
それは、私自身が毎回絵を描く活動するたびに「絵のストーキングやフリーライドをされ」、「『真っ当に鑑賞、評価されることなく』ただそのフリーライド絵師の『燃料扱いしか』されない」という恐らく特異な活動経歴を持つ身だからである。

絵へのストーキング、フリーライドの極北が「パクリ」となる。
ボリューム調整のスライドバーの最大音量がパクリで、最大以外のどこかで寸止めしたものが絵へのストーキング、フリーライドという風に捉えて貰えば大体間違い無いと思う。
私がそう考えているわけではなく、フリーライド絵師の判断基準がそうなっているのである。
奪った量が少なければパクリではない、という理屈を彼らは真顔で言ってくる。

フリーライド絵師は大概というか全員「故意犯」であるので、パクリまで行かないよう見計らいながら寸止め、つまりバレないよう左右反転、ポージングや技法の一部などの切り取りを行って(=ボリュームを絞って)「私が考えだしたオリジナルポージング(技法)よ!どう!?(どやさ!)」という思念を描いたキャラの表情に丸のまま乗せて平気な顔をしている(本人無自覚)

他人絵尻馬ライダーの言い分が犯罪者のそれとそっくりな件

彼ら尻馬ライダーは自分では思いつかないポージングや表情のために他人の絵をストーキングして、一部を切り取って「毎回後追いで」描く。
「私が考えだしたオリジナルポージング(技法)よ!どう!?(どやさ!)」という割に自分が先にその技術を披露することはない。
毎回他人の後を追いかけて描く。
その追いかけっぷりはまるで夜道で女性の跡をつけるストーカーの如くである。

彼ら尻馬フリーライダーは
「あんたの後を追いかけてるのではなくたまたま一部が似ただけでよくあること!あんたみたいな下手なのが真似されてるとか自意識過剰!」
「他人の絵を見て描くなんてみんなやってるんだから当たり前のこと!そうやってみんな切磋琢磨しあってるだけ!」
「そんなちょっと『だけ』なんて減るもんじゃないんだしパクリ(罪)じゃないでしょ!」
「オンラインで全世界に公開してるんだから当たり前!それがイヤなら非公開でやれ!」
と言う。真顔で。

しかしこれは
「自分が後を追いかけてるのではなく偶然前を女性が歩いてるだけ、あんなブスが追いかけられてるとか思うのは自意識過剰!」
「後を追いかけても物理的に被害を与えてるわけじゃないから罪にならない!」
「視姦しても物理的に被害を与えてるわけじゃないから(略)」
というストーカーの言い訳に酷似しているように思えてならない。

更に言うなら
「触ったって減るもんじゃないんだからいいじゃねえかよ」
という痴漢の、
「目の前に陳列してあるんだから盗まれたって当然だろ」
という万引き犯の、
「先っちょ『だけ』でいいから挿れさせて」
というレイプ犯の、
つまり明らかな犯罪者の言い訳に通底して見えるのは気のせいだろうか。

他人絵尻馬ライダーたちは同調圧力で正当性を強調し牽制し合う

そして、その程度のレベルの絵師は群れる。
群れて同レベルクラスタのエコーチェンバー内で自分たちのフリーライドを「『正当な』絵師の切磋琢磨だもんねー」「ねー」「ねー」とお互いの正当性を強調しつつ牽制し合う。

しかし

のシリーズで雲上人Aさんの逆鱗に触れた件からもわかる通り、私は基本的にポージングや技法は自分の脳内イメージを頼りに描いており、外部の資料を使うことはない。
外部の資料を見ると具体的かつ詳細でリアルに存在する視覚情報の強度故に、脳内ブラックボックス内で朧げに感知されていたはずの本来の「自分自身で感じた」脳内イメージが爆散してしまうからである。

私の描き方と尻馬ライダーの描き方の根本的な違い

なので私の絵の切磋琢磨は少なくとも「他人の絵を参考にする」ことではない。
あくまで「私の脳内イメージに忠実に描けるだけのスキルを身に付ける」ことである。
だから私にとっては「脳内イメージの具現化が作品」であり、「『見て描く』こと(があるとしたら)は『作品ではなく他人に見せない練習や習作』」である。
それも例え『見て描く』にしても対象物をしげしげ眺めて構造を観察し、脳内に3Dで叩き込んだ後『脳内でぐるぐる回しながら』描く、という結局脳内イメージに必要なデータを先に脳内に蓄積してから、描く時には脳内以外は何も見ないという手法になる。
『脳外の何かを見ながら』描く、ではないのだ。
ましてや他人の絵(2D)は私にはなんの参考にもならない。
立体構造を理解した上で2Dに落とされた絵でも結果的には2Dに過ぎず、自分の脳内イメージのほうが自由自在だからである(ただし自分のスキルが脳内3Dイメージに追いつかず不本意な出来になることも多々ある)

ポーズ人形には乗らない【クオリア】

人体の場合ポーズ人形を見ながら描くのもありだろうが、ポーズ人形の場合

で書いた絵柄ストーキングされて消えていった『ように見えた』プロ漫画家さんのような

・ものすごく動きを描くのが上手い、躍動感に溢れている
・立ち姿にインパクトがある(キャラが地面にしっかり立ってることがはっきり伝わってくる)

プロの押しも押されぬ漫画家さんが恐らく絵柄ストーキングされて消えていったように見えた話
https://note.com/midoriene/n/n2ec52d1224f2

といった「2Dに描いた以上の効果」のある絵を目指すのは難しいという弱点がある。

これらの「効果」は「物理的に存在していないのにそこにあるよう読者に伝わって感じられる知覚」であり、私はそれを【クオリア】と呼んでいる。
つまり、脳外ではなく「脳内イメージに3Dポーズ人形が装備されないと表現することのできない境地」というものがある、ということである。

ちなみに顕著にクオリアを乗せようと頑張ってる例で一番見かけるのはおっぱい星人の描こうとする乳ではないかと思う。
おっぱい星人全てがクオリアを乗せられるという意味ではない。
ちゃんと人体構造や陰影の法則が理解できてないのに2D変換済の乳にだけ執着して3Dの物理の法則を無視してるおっぱい星人が大半からだ。
(別に界隈に詳しいわけではなく、広告などでなんとなく目につくものだけで判断するとそうなる、という話である。商業広告レベルでそうなので、界隈も推して知るべし、となる)
ただ一番クオリアを表現しようという「意欲(…?)を感じる人数が偏在して多く見える」のがおっぱい星人界隈という話である。

ポーズ人形と絵柄ストーキングに【クオリア】が乗らない理由

なぜポーズ人形と絵柄ストーキングに【クオリア】が乗らないのか。
まず、ポーズ人形には人体特有の「しなり」まで作り込まれておらずディテールやニュアンスの表現までは具備されていないことがひとつである。
もうひとつは仮にそれが具備されていたところで一番強いのは「描き手本人が経験則にアクセスしながら描いた『体感という一番の映え要素のトッピング』」だからである。
絵柄ストーキングしかできない程度の画力ではディテールもニュアンスも見分けられるほどのセンシティブなアンテナ、観察力が発達してないからである。
況や『体感という一番の映え要素のトッピング』に於いておや、である。

絵柄ストーキングで消えていった『ように見えた』漫画家Bさんは脳内3Dポーズ人形ぐるぐるとご自身の経験則を駆使して(物理的には存在していないはずの)躍動と重心を読者に感じさせるほどのクオリアを乗せて描いていた(恐らく)

「Bさんの絵から基礎画力を7割引した2Dだけ描き慣れたBさん絵柄ストーカー漫画家C」も本当に欲しかったのはBさんの絵柄ではなく【クオリア】だったはずだ。
でも他人の2D絵柄をいくらそっくりに描けてもCの脳内にはBさんの「脳内3Dポーズ人形」は存在しない。
なので経験則による躍動感や体感の付加ができない。
だから「一番欲しかったはずの【クオリア】はCの絵に存在しない」のだ。

これが漫画家Cの画力を「Bさんの絵から基礎画力を7割引した」と私が評する由縁なのである。

(続)

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