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人生が100秒だったら

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私に起きたことを100秒くらいに縮めてみよう。人生最期の瞬間、まぶたにフラッシュバックされるっていう、あんなふうに。
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#両親

制服を着る

こんな私もかつて制服を着ていた。 通算して7年、幼稚園、中学、高校の時代に。 アルバムに残っている入学式の写真は、どれも「誇らしげ」に写っている。カメラの前でポーズをとっていた本人もさることながら、カメラを構えていた両親の誇らしさのほどはいかばかりか。 あれは何だったのだろう。 学生服を着ている自分と、着ていない(普段着の)自分。 あの違いは? 特に自覚無く、大人から言われるままに「着せられていた」はずなのに、子供ながら確かにそこにあった高揚感は?満足感、帰属感、安心感

脳内8ミリ

6歳から9歳まで暮らしたブラジル・サントスの記憶は、アルバム2冊の白黒写真に残っている。これはそのアルバムの中には残っていない出来事の話だ。写真という形で残されていないのに、いや、だからこそ脳内で再生される時、鮮烈になる。昔の8ミリ映写機の音までカタカタ聞こえてくるような気がする。 それは両親と一緒に映画のロードショウを見に行った、その帰りの出来事。その日、どうしても見たい映画があったのだろう。(たぶん1962年公開「史上最大の作戦」The Longest Day)3歳の妹

影の無いお友だち

ブラジルに行ったばかりのころ、私には友だちがいなかった。近所の子と遊ぶためのポルトガル語も、アメリカンスクールで勉強することになる英語もつたなかったからだ。 そんな私にまもなく特別な友だちができることになる。彼らはみんな架空のお友だちだったけど、6歳だった私は彼らのつくり出す世界にどんどん引き込まれていった。 それはDick and Jane、そして末っ子のSally。アメリカンスクールで渡された教科書の中に彼らは住んでいた。 驚天動地。 想像して欲しい。 1960年代

金の星

写真が1枚残っている。 American Schoolの成績表を手に立っている写真だ。持っている成績表には青、赤、銀、と並んだ星のシールの最後に金の星が貼られている。はじめてクラスで一番の成績をもらった時の記念に両親が写してくれたものだ。 6歳から9歳まで通っていたブラジルのEscola Americana de Santosには日本人はもちろんアジア人は私達姉妹以外いなかった。全員白人(主にアメリカとヨーロッパから駐在)の環境に放り込まれた私にとって、彼らが日常話すポル

地平線

見たことのある景色には、記憶の道を辿っていくとまた着けるのだろうか。 1962年の8月、その道は地平線まで続いていた。私は後部座席から、車が通って来た道を見ていた。 なんだこれは。 走っても走っても、後から後から車の下から湧き出て来る道に終わりがあるようには見えなかった。私は、途切れることなく伸びていくその一本道から目を離すことができなかった。 こんなの見たことない。 前の座席の両親の向こうに見えるこれから行く景色も、どこかに近づいて行っているようには見えないし。近