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なぜアニメ・漫画原作付き実写映画は、こうも嫌われるのか(後編)

前回は歴史的名作の闇(言い過ぎ)を見ていただきました。光あるところに影がある。まこと…いや、そんなわざわざ闇に忍ばなくてもいいから、好きな作品のメディアミックス作品くらい、笑顔になれるものが見たいんだぁ!と思うのがファンの心理です。なのに、悲劇はなぜ生まれるのでしょうか。今は大昔ほどの世間的な場の悪さもないというのに…。

この章を書き出した時に「ルパン三世・念力珍作戦 (1974年作品)」という実写映画を思い出して「ああ中編にさわりだけでも書けばよかったな」と思いましたが後の祭り。本編は通して見てませんが、あのキャスト、この絵面!ってだけでも察するところがゴマンとありまくり作品なので。みなさんも見る機会があれば、見てみてはいかがでしょうか。きっといい話のネタになりますよ。
(ちなみに私はコレの併映だった「ノストラダムスの大予言」の方が好きです。コッチの本編はテレビ放映(!)で見ることができました)

前回、「アニメ・マンガ特有の表現と生身役者の芝居の限界」について言及しましたが、今回はもう少し細かい、具体的な事を探ってみたいと思います(妄想も入りまくりかも知れませんので、その点はよしなにと前置きしておく万全)。

中途半端にかかると怪我や火傷で済まない「原作付き」映像(メディアミックス)モノ

同人誌の二次創作のように、ある程度「ソレはそう言うモノ」という覚悟や自覚が、描き手にも受け手にもあるフィールドでは、なんとなく大事にならずに済んでいるというのがあるのですが(その辺が済まない方々も時々おられますけど)、こと公式・商業作品(映画等のメディアミックス全般)に於いては、そうはカンタンにはいかない感があります。
まず同人誌(二次創作)と違い、観客(ファン)は「公式だからイメージを崩さないで(ある程度忠実に)作ってくれている(だろう)」という謎の信頼を抱いている感があります(ライト~コアなファンまで含め、双方に無意識下でそのナゾ信頼はあると感じます)。
ソレ故、閾値がガッツリ下がった物が出てくると、それはもう好き故に燃えます。ホントによく燃えます。「火に油」とはこのコトです。

造り手側には、昔なら失敗しても七十五日的なアレで、その作は世間から忘却処分にもなってくれる事があったでしょう。でも現代は失敗もアーカイブされて延々と残り、ネットの広大な海で広く語り継がれてしまう世の中です。ググれば一発。…怖いですね(笑)。
逆に言えば、クオリティが最低でも平均値(±0の)、もしくは欲かかずに若干のプラスポイントでも稼げるモノを作れば、良作として永く語り継がれ、本人の利益にもなるんですが(クリエイターとして、それレベルでいいのかってのはさておきます)。

◯◯世代、以前、以降

それでもコンテンツを取り巻く環境自体は、制作側も客側も大昔よりは変わってきています。アニメやマンガ自体の市民権の立ち位置的にです。
昔(昭和)、アニメや特撮はメディア業界では「ジャリ番(ジャリ=子供の俗称・蔑称。子供の番組)」と蔑まれ、マンガも悪書とされ迫害の対象でした。ある時期には子どもたちから奪った漫画本(信じられないかも知れませんが、今や神様と崇められてる手塚治虫の作品も例外ではなかった)を、PTAが学校の校庭で焼却処分にしていたという、サバトもどきみたいな事もしていた時代があったんです。

(話はそれますが、このへんは音楽に関しても言えることで、「ビートルズは不良の音楽、ロックは不良の音楽、エルビス・プレスリーを聞くと妊娠する!」とその当時の大人たちにはまぁ、めちゃめちゃを言われていました。ソレが今では、ポールやストーンズが来日すれば、人生の折り返し地点をゆうに過ぎた方たち(配慮した言い方)が血眼になってプラチナチケットを求め、最近上映された「とあるロックミュージシャンの自伝的映画」には何回も通う先達も多く、今になってそっち方面が再燃した方々も多くいらっしゃいますね)

というふうに、オタク、マニア以外の人たちのこれらのコンテンツに向ける意識もスタンダードの基準も、時代につられて昔とは違う色になってきています。(実際は昔よりは多少風当たりが弱くなった、というだけですが)

そういった中、現場のクリエイターもそうですが、判断を下しGoサインを出す、判子を押す。そういった立場の人たちの拒否反応というか、そのコンテンツとの精神的親和性も、以前よりはずっと高くなってきています。その点が高くなることが一つの鍵で、そうなれば造り手と観客の乖離率も、少しは縮まるのではないかなと思うのです…(100%改善するとは思ってないですが)。
結局、脱線したものについて客観的に「そうじゃない」と言える・気付ける上の人やクリエイター。消費者が不満に思っている事を正確にくみとり、ソレを違和感なく解釈できて、造り手に指示できる側の人達が、一人でも多くオフィスに、現場に、それぞれいるようになれば、現場的にはなんとかなる(かな?)という気がします。確実に今は、先のアトムや28号のような事態は起きにくくなっています。

というわけで、「こうなれば…ね?カンタンでしょ?」みたいな感じで書いちゃいましたが、ソレはあくまでも「観客側・制作・映像クリエイター側がこうなれば」論です。

…我々は重大なファクターを一つ忘れています。

「誰がこまどり…(以下略)」

二次元芝居と三次元芝居は世界・理(ことわり)・空間自体が違うというのを前編でも書きました。乗り越えられないその落差、空気感の壁という、漠然としたソレが一番の原因ではないかと、今まではボンヤリ思っていました。しかし近年、原作付き作品が崩壊するのは「ソレのもっと細かなコトの連鎖があって、ソレがスイッチで崩壊になるのでは?では具体的には何?」と考えるようになりました。

実写化ということは、キャラクターのビジュアル面も生身の役者が演じるということです(アタリマエ)。そしてメディアミックス、特に映画やテレビドラマというモノは、スケールやお金の面で大きなプロジェクトとなり、結果多くの人がコレに関わりを持ちます。当然その中では、力関係も発生します。

さぁ、ココからは私の妄想・私論です。与太話として聞きましょう(推奨)

あくまで原作を抱える側が主導で、力関係も上位であれば、私達が思わず嗚咽をあげてしまうような物が出来る確率は、まぁ低く抑えられると思うんです。しかし、そこをクリアしても、ソレをアレげにしてしまう引力は発生してしまいます。一体ドコからソレが発生するのでしょうか。私の思う具体的なソレとは、次のようなものです。

1. 若い役者(アイドル)の力量の問題
こういったマンガやアニメ原作の実写作品には「若いタレント(アイドル)」が配役を担うことが多いと思います。むしろ「そういった場でしょ?」という空気さえありますよね。確かに子供とか高校生役に実力派ベテランのオーバー30とかキャスティングするようなチャレンジャーは、今はあまりいません(昔には、かなりのベテラン女優がセーラー服着て高校生を…とかがよくあったそうですw)。ですので、自然と若い層にお鉢が回ってくるのは必然。それに旬なキャストは、売上にチョクで響く要因になりますし、その選定は非常に大切な項目です。しかしソレに選ばれる者、全てに役者の実力が伴っているとは限らないってのも現実です。不思議ですよね。本来「実力主義社会」なはずのタレント(才能)世界なのに…。
若い役者、タレント、アイドルの方でも、芝居が達者な人なら(もしくは監督・演出家の演技指導がしっかりしていれば)その点、安心して見ていられるんでしょうが…往々にしてまぁ、場数が少ないせいなのもあるのか、その…あまりその点が達者でない(言い方に配慮)方が演られると、なんというか観るコッチ(原作ファン)にも、結構ストレスがかかったりします。わかりやすく言えば「イメージ壊された」状態です。
パターン的には、役(キャラ)に追従しようとした結果、トコトン引きづられ、役者自身の個性とのバランスが取れなくなって演技が宙に浮いてしまった形、または役者の個性が出すぎて、ソレがセーブできてない、隠せてない人。役に寄せる力量が無く、その点が未熟なせいで、自分そのままを出すしか無いといった唯我独尊な演じ方にならざるを得なかったという形。そういった芝居を見せられると、原作のファンたる観客のアタマは…そう、コレでいっぱいになります。「ちがう、そうじゃない…」

2. オトナの事情・都合
前章にも書きましたが、どのスタッフもヒットさせたいと思う気持ちは同じで、その点では共に視線の先は同じになっているはずです。ただし大要ではそうでも、にんげんだもの、細かい所でいろいろ違うし、状況的にやむを得なく…というパターンもあるのかなと思います。

監督・脚本家の「作家性」というものがあります。一番良い(悪い)例は「オリジナルキャラクター加えてみた」みたいなヤツ。仮に監督や脚本家、キャスティングボード、金庫を握っているオトナたちに、アニメやマンガに特に拒否反応がなく、実写=偉いという前時代・旧時代的なおごりもないとします。しかし、監督や脚本家だったらお話を面白く、「映画(実写)ならでは」にしようと、中の人たる「作家」がアタマを捻ります。そして考えた末のアイデアでこういうのが出て、採用されることがままあります。コレは吉と出ることもあるのでしょうが、その成功例というのも、あまり聞いたことがありません(あるんですかね?)。
イチかバチかの世界です。だってもう半分、原作ファンに喧嘩売ってるのと同義ですからね。オリジナル要素のバリエーションは他にもありますが、コレもホント「上手く」やらないと、やはりこうなります。「ちがう、そうじゃない…」

もう一つは「周囲や状況がそうさせる」的な要因。予算、役者のワガママ、タレント事務所の方針等、いわゆるクリエイターを動かす側の「オトナの事情」がそうさせてしまうというアレ。「原作のこのシーン、実際アクションでやると予算オーバーするんだよね。違うシチュで考えて」「オファーは受けますが、ウチのタレントは台本のココみたいな事はキャラじゃないので、そのシーンはナシ(もしくは大幅な修正)で」「役は受けるから、バーターでもうひとりウチのをなんかで使ってくれません?」等々、当人たちは、真面目に利益を守るための行動としてやってるのですが、ソレが歯車に挟まった小石にならないとは…限らないんですよねえ。この辺はヒエラルキーの高い所にいるのが、原作抱えてる所なのか、役者(タレント)抱えてる所なのかによります。
「出来ることの制限は逆にクリエイティビティの源」とはよく言いますが、わざわざ外せない要素まで削ってやることではありません。人物設定とかは特に。そういう状況でも、制御する役職の人が歯車をしっかり噛み合わせてくれてればいいのですが、ソコの制御に失敗すると、やっぱりコレも観客の頭の中が「ちがう、そうじゃない…」となります。

これらの要素が小気味よいコンボで繰り出されたりすると、作品のファンやオタク層には最悪のイベントが発生します。前編の方で書きましたが、ファン、オタクには作品に対して確固たる作品像がもう確立済みの事が多く、作品と役者の両方の支持者でない限りは、どう頑張ってもプラスベクトルの感想が持てない。妥協できる余地がないんです。

結果…そう、「ご愁傷様です」的なアレです。そして…

そして伝説へ…

こうした結果、アレゲな作品がまた一つ、地上に舞い降りるわけです。
ちなみに上記のコトが揃い踏みしても、興行的には成功することはあります。それは作品の内容、出来がどうこうという結果ではなく、「役者のファンが頑張った案件」「広告・宣伝が神がかり的に上手くいった」というやつです。しかしコレもまた、一つの成功のカタチ。制作側にとっては興行収入の多さ、視聴率(PV)の高さこそが「正義」なのですから、「成功」と言われればソレは成功です。

こちらからしてみれば「季(節)違いじゃが仕方がない」的なアレでしかないのですがね…(白目)。

結論として、原作付きの実写メディアミックス作品への阿鼻叫喚は何故生まれ、なぜ当たり前のように駄作として語ることになるのか、その一番の決定打とは…。自分が思うのは、

「自分の(作品)愛ゆえ」でしょう。

あ、こんなに結論を後に引きずっておいて、吐き気するくらいのものすごくクサくて当たり前の事言い出したぞコイツ…とお思いでしょうが、対象にぶつけられるその「阿鼻叫喚」は、いわば複数のダメ要素同士の「象徴的結婚」が為せる技という話です。
いろいろ曲げられたり、アレして作られた等の外的要因があるのは、前提として当たり前ですが、しかし最終的には自分の中にある、熟成された「作品愛」がなければ、ソレはソレとして発生しないモノだと思うのです。モノが燃えるにはある程度以上の熱量が必要で、そんなに思い入れがないものであれば、感想だって「ん~、つまんなかったかな(てへっ)」レベルで終わり、公言するまでもなくサラリと記憶の彼方に消えていくものだと思うのです。

「自分の愛が駄作を産んでしまう」ということは、確実に今後も「そういうのが」産まれ続けるの確定!になったということです。多分個々が理想として描く「駄作の撲滅」は…無理なんですよね。同時に私達は、多くの他人の記憶にソレが「真っ当な映画(作品)」として残るというのを忸怩たる思いで見続けていくというのも、セットでついてくる人生が確定となります。私達は「情熱的に好きなモノ(作品)」を身に抱えてるうちは、お腹が空いても「苦行バリューセット」しか買えないという十字架を背負っているのです。(ぅゎぁ…)
「ソレは血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ」と黄昏れたくなりますが、多分そういう運命なのです。もう覚悟しましょう。大丈夫!いつかは自分のジグゾーピースに合うピースを作ってくれる人が現れます!

…多分!(えー、そんなオチかーい!)

エピローグ

ソレがさだめとあれば心もき…じゃなく、なんかそういう運命なら、アレゲな作品にぶち当たっても、「わろとけわろとけ」と半分は笑っちゃえる器量を持った方が、QOL的には良いのかも知れませんね。もちろん、体たらくを出された事に怒る気持ちも忘れてはいけませんが。
前にも書きましたが、成功例もあるのです。いつか幸せになれるようなメディアミックス作品に出会えるときまで、心身ともに健やかでいたいものです。イイもん観せてくださいよ、いやホント、マジな話で。(遠い目)

(コレを執筆中に、少年ジャンプに連載中の人気連載漫画「約束のネバーランド」が2020年に実写映画化されることが発表になりました。そして、主人公格の少年少女の(出荷)年齢が上方修正されるという、「映像クリエイターの作家性」なのか「大人の事情」なのかわからないけど、そういうニュースも飛び込んできました。今の所チケットを買ってまで劇場に行く予定はありませんが…匂う、匂うでぇ!コレはアレゲな匂いやおまへんかっ!(萬田銀次郎ふう)。というわけで、今はどちらにも評価をしないまま、黙って行く末を見守りたいと思います。はてさて、どうなることやら…w)

(あ、文書く人としては、なんか全体的に散漫になってしまった感がモリモリで辛いっす。反省しよう。長文は計画的に!(しょぼーん))

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