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【神野三鈴】井上ひさし作『円生と志ん生』2005年2月13日 新宿紀伊國屋ホール

井上ひさしの新作『円生と志ん生』を新宿紀伊國屋ホールで観た。主役の六代目円生に辻萬長、五代目志ん生に角野卓造という当代一流の俳優を迎え、ふたりに関わる女性達に久野星佳、宮地雅子、神野三鈴、ひらたよーこという豊かな舞台経験を持つ美しい女優たちが脇を固める。それに、演出の鵜山仁、音楽の宇野誠一郎、演奏の朴勝哲という井上演劇ではおなじみの円熟のスタッフたちが加わって、全力投球で当代最高の喜劇の創造に取り組んでいる。

今回の舞台は旧満州大連市。関東軍の慰問に訪れ、そこで敗戦を迎え日本に戻れなくなった落語家円生と志ん生の六百日を描いているが、この数年井上さんがとりあげてきた、林芙美子(『太鼓たたいて笛ふいて』)や吉野作造(『兄おとうと』)の人生にくらべてタイムスパンが短いのが特徴だ。それだけに舞台は緊密で、ユーモアにあふれたセリフや楽しい音楽がちりばめられてはいるものの、第一部は敗戦後の満州の、ソ連軍(当時の日本人はソ連人のことを「ロスケ」と呼んでいた)侵攻と占領統治に対する不安と緊張感に充ち満ちている。厳しい現実をだじゃれとこばなしで対象化し、敗戦後の満州を生き抜いてゆくふたりの落語家は、しかし、あまりにも過酷な現実の前に何度も危機を迎えるのだ。そして彼らの敵は、戦争と敗戦後の現実だけではない。もうひとつの敵は、笑いを忘れ笑いに無関心な世の人々の心性なのである。このある意味でダブルバインドな状況を、ふたりの個性の異なる落語家がいかに生きたかを描ききることで、井上ひさしさんは、私たち観客にこう問いかけているようだ。あなたの人生にとって笑いとは何なのですか…と。

劇中に使われる音楽はすばらしい。宇野誠一郎さんのオリジナル楽曲のほか、ヴェートーヴェン、「ひよっこりひょうたん島」からのスコア、そして、美しいリチャード・ロジャース。どの歌にもとんでもなくユーモラスな歌詞と振り付けがつくが、舞台の袖で軍服姿でピアノを弾く朴勝哲さんの名演奏ともあいまって、この芝居のもうひとりの主人公ともなっている。歌と笑いは、井上演劇の重要な仕掛けであり、井上ひさしさんの現実への対峙の仕方でもある。

さて、この舞台の圧巻は、第二部後半の修道院屋上の場面である。なぜ芝居のポスターやチラシに修道尼の姿が描かれているかが、この場面で解き明かされることになるのだ。芸達者な役者たちによって演じられるドタバタ劇は、しかし、恐ろしいまでに計算尽くされた間のとりかたによって構成され、私たちを抱腹絶倒の世界に導いてくれる。私は、この場面の間中、そして終演後も笑いがとまらず、笑いすぎて涙で顔がぐしゃぐしゃになってしまった。なぜ、敗戦後の大連で落語家とキリスト教がからみあうのか?おそらくこれが今回の芝居の最高の舞台装置であるが、それは観ればすべての人にただちに理解できるだろう。ただ、笑いすぎて聞き逃さないで欲しい。セリフの中にある私たちへの現実への鋭く渾身のメッセージを…。私は、この芝居で喜劇作家井上ひさしの凄みに、あらためて震えるほどの感動を覚えた。この修道院の場面は、おそらくこの舞台の「下げ(落語用語)」の部分であり、だからこそ、この芝居の構成そのものが、敬愛する先輩喜劇人・落語家へのすばらしいオマージュになってもいるのだと、私には感じられた。このお芝居のタイトルが寓意ではなく、落語家の名前になっているところからも、そのことは十分に推察されるのではあるが…。

しかし、この場面、初日の一週間前に台本が仕上がったのだと、三鈴さんから聞いた。最高の演劇は、最高の才能の凝縮されたところにしか生まれないという、ひとつの証拠である。

今回の芝居では、われらが三鈴さんの、もうひとつの魅力の出会うことができる。これまで、繊細でエキセントリックな役柄が多かった三鈴さんだが、今回の修道尼の役では、そこぬけにバカで間抜けなおもしろい人を演じている。端正な美しさと所作を持つ三鈴さんだけに、ここでの生真面目な演技は真実おかしい。あたり役である。三鈴さんの新境地に心からの拍手を贈りたいと思う。

残念ながらこのお芝居は、前売りがあっという間に完売した。だが、紀伊國屋ホールでは若干の当日券も出るようだし、2月26日(土)のソワレが追加公演となっている。鎌倉や川西町に出向くのもよいかもしれない。ともかく、是非多くの人々に観ていただきたい。

おもしろくなかったら、代金お返しします。

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