【神野三鈴&小曽根真】おやすみ、こどもたち 2001年7月29日 PARCO劇場

 地上から一気に空中の劇場に運んでくれたエレベーターをおり、チケットを買って劇場の中に入ると、そこは芝居の開演前に特有の明るいざわめきの中だった。開演五分前。日曜日だというのに朝から仕事があった僕は、原宿から渋谷パルコ劇場までの道のりを、人をかき分けるようにして歩いて、やっとたどりつくことができたのだった。


 右手の袖の扉から入ろうと通路を進むと、バーカウンターの前で女性とはなしている小曽根(真)さんが目に飛び込んでくる。そして、前で立ったままで、しかもいかにもそこにいるのが当然のような圧倒的な存在感でビールを飲んでいたのが金さん(=小曽根さんの熱烈なファンとして有名)。金さんは、公演三日目にして、三回目の観劇だそうだ。また渋谷で、新たな伝説が生まれつつあった。金さんのとなりには、なんとペコ(伊藤君子)さんがにここにこしながら立っている。そして、数人のフォーラムの仲間たち。今日は何かが起こりそうだな・・・その時風が動いたような気がした。

 
 女性と話を終えた小曽根さんが、こちらに向かって歩いてきた。「ああ、みんなどんどん集まってきてるねえ」。この人は、いつも情熱的だ。歩く情熱大陸!そう呼ぶ以外はない。「パンフレットのこの解説先に読んどいたら、今日の芝居もっとよくわかるよ。二・三分で読めるしね、絶対読んでおいて!戦争中の、イギリスの里親制度のこと知ってたほうが、絶対お芝居がよく理解できると思うわ。僕、この解説読んだだけで、すごい感動して泣けてきたしね」。僕たちファンは、あんたのそういう率直な、いきなり本質に切り込んできてあっという間に胸をわしづかみにしてゆく、そういうところがめっちゃ好っきやねん・・・。でも、なんでそんなにいつも、フレンドリーでフランクなの?僕だけでなく、そこにいたみんながそう思って感動していた。そう、ベテランの金さんまでもが、今でも毎回そう思うのだそうだ。ペコさんも、僕たちと一緒に小曽根さんの言葉に耳を傾けている。風は確実に吹きはじめていた。


 会場が暗くなって、芝居がはじまった。「おやすみ、こどもたち」。第二次世界大戦直後のロンドンが舞台である。イギリスでは、日本と違って、こどもたちの集団疎開は、里親制度によって行われた。こどもたちは、個性も、生活環境も異なる里親によって養育され、ナチスの都市爆撃から免れることができた。しかし、それはとりもなおさず、こどもたちの運命が、里親がよって握られていたことでもあった。ロンドンに住む仲の良い四人兄弟、三人の姉と、一人の弟が主人公のこの芝居は、ウェールズに疎開していた三人の姉と、たったひとりでカナダに疎開していた弟の再会の場面からはじまる。これから、この芝居を見る方がほとんどだろうから、詳しいストーリーを書くのは差し控えたいと思う。が、私見を述べさせていただくと、この芝居は「不在」がひとつのテーマになっていることに注意すべきだと思う。「里親」の不在、「戦争」の不在、「両親」の不在、そして「家族」の不在・・・。テーマと場面設定に関わるすべての情報が、観客にははじめに与えられていない。というよりも、はじめから終わりまで、ついに直截には何も語られないのである。だから、観客には、とりわけ、時代ばかりか歴史的・文化的なバックグランドが全く異なる日本の観客には、観客自身がゆっくり時間をかけて変身し、舞台に一体化するまでの努力と忍耐とが求められる。俳優の演技とセリフのすみずみにまで注意を払い、登場人物の心の機微に入り込むことによって自らの心の中に世界を構築することによってしか、この舞台は理解できないであろう。しかし、その努力と忍耐は、実はあらかじめ脚本家と演出家によって巧妙にしくまれたものであり、この一見困難なゲートを通過することによってのみ、観客は舞台の俳優たちと高いレベルで一体化することができるのであった。そして、僕たちは、今回出演した俳優たちの見事な演技によって、必ずその境地に達することができる。見事な力業である。そのカタルシスの効果は驚くほど強烈で甘美な演劇体験であるように、僕には思われた。誰でもこの作品を見ると、この作品そのものが愛おしくなるに違いないと思う。舞台は生きものなのだ。


 結末で、この舞台のテーマが、「家族」と「こどもたち」の心の傷をめぐる普遍的問題であることが強く示唆されるけれども、結論はない。結論は、観客自身が出す問題だとでもいうかのようにである。両親と弟が「不在」の家族に、弟が帰還する場面からはじまるこの舞台は、傷ついた弟と姉とがタブーに接近すること崩壊に直面するし、みすずさん演じる二女の出産による「こども」の誕生によっても、容易には再生しない。イノセントでなくなったかつてのこどもたちが再生し、生き直すためには、新しい家族の誕生だけでは贖えない。では、なにが必要なのか?最後の暗転の前の、みすずさんの演技がそれを物語る。雄弁に・・・力強く。最後の最後で、この舞台は、第二次大戦直後のロンドンでのお話ではなく、まさに僕たちの問題だと深く理解できるのである。僕は、やはり自分の家族のことを思って涙がとまらなくなってしまった。今も書いていて、涙が出てきてしかたがない。


 それにしても、今回の神野三鈴さんの演技はほんとうにすばらしいものだ(といっても初めて拝見するのだが)。愛情豊かだが、繊細で傷つきやすく、だからこそ少し精神を病んでいるように見える二十歳の二女の役である。美しいがとても難しい役だ。不在の「家族」「愛」の象徴でありながら、自らの中に新しい生命を宿しているという矛盾に満ちた役。この二女の意外な行動が波紋を呼び起こすからこそ、緊張感を保ったまま二時間の舞台が一気に駆け抜けてゆくのでもある。この重要な役を、みずずさんは、すばらしい演技力で演じきっていらっしゃる。最愛の夫の眼前で(小曽根さんのこと)、かなり激しいラブシーンもある!!(うわっ!)でも、舞台を見ながら一番笑っていたのは、小曽根さん本人だったのだが・・・(笑)。ともかく、見逃すという手はない。


 Shiollyさんのお姉さん、目黒未奈さんの演技もすばらしい。Shiollyさんにとてもよく似ていらっしゃる。深刻な家族の問題を何も知らず、外部者として不用意に家族にかかわる、イノセントな娘を演じている。少女の持つ、残酷さと無惨さの両面をみごとに演じて秀逸。ともあれ、この芝居、みずずさんだけでなく、俳優さんがみなさんすばらしいということはいうまでもない。


 最後に、この舞台の音楽について。もうすでに、このフォーラムで多くの方々から報告がなされているので僕が付け加えることはないのだが、小曽根さんが作曲し演奏された今回のすばらしい曲のひとつひとつは、やや難解なこの舞台の見事なナレーターであり、水先案内人になっていると思った。小曽根さんの音楽の持つある種の普遍性が、観客を舞台の世界にすーっと誘ってくれる。暗転からの最初のシーン、バックに流れている曲が、舞台上のピアノの演奏に受け継がれてゆく場面は鳥肌が立つほどすばらしいし、白木美貴子さんの歌うテーマソングが、ラジオから流れはじめてやがて舞台全体に拡がる巧妙な仕組みは、舞台に格別な奥行きと深みを感じさせてくれる。そして、小曽根節を随所におりこんだセンチメンタルで甘美な音楽は、この舞台をさらに輝かせているように思えた。みごとなコラボレーションという他はないと思う。是非、CD化していただきたいと念願している。僕たちは、小曽根真の音楽でこの舞台を見ることが出来るのだから、ロンドンの観客よりも絶対に幸福なのである。


 舞台が終わった。みんな涙を目にためている。でも、号泣する人はほとんどいない。先ほども書いたように、この舞台では、観客に結論がゆだねられているからである。みんな、すばらしい舞台に感動しながらも、自分自身が問われ、考え込みながら帰ってゆく。客席の真ん中あたりに小曽根さん。フォーラムのみんながあつまる。口々に感動を告げる。そこで小曽根さん。「ね、ほんとすばらしかったでしょ。やっぱりな、イギリスの里親制度のことわかったらな、全然理解出来方が違うからね」・・・。この人は、あくまでも元気である。歩く情熱大陸なのである。

このレポートは、同日の「白木美貴子ライブ」に続きます。あわせてお読みいただければ幸いです。

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