とやまの見え方・「ワーズワース詩集」と、田部重治さん、南日恒太郎さんのこと

 2020年8月10日投稿

 散らかった書籍をかたづけていて、重ねてあった文庫本が崩れました。

 いずれ読もうと積んであった岩波文庫の一冊が、私の目の前に落ちました。『対訳 シェイクスピア詩集』です。シェイクスピアの詩集だなんて、我ながら殊勝な心掛けです。

 解説にある英文の脚韻の法則を確認し、英文原詩と日本語訳を比較しながら読むと、思わぬ充実感に満たされます。今になってシェイクスピアの詩集に親しみを感じるとは、私にとって、一生の拾い物になりました。

 こうして、なんとなく日本語訳の英詩を読むコツがわかってきたので、他の英国詩人の作品も読みたくなりました。

 早速いつもの書店で、おなじ岩波文庫の「ワーズワース詩集」を見つけ、『シェイクスピア…』とは違って英文原詩のない日本語訳だけでしたが、購入しました。後日調べたら、岩波文庫では、近年に別の訳者による英文原詩付き対訳本も出版されていました。しかし、生憎というか偶然というか、実は、幸運だったのですが、この日、書店の書棚に並んでいたのは、この和訳だけの文庫本でした。

 さて、いつものように寝転がって読み始めたものの、どうも波長が合わなく、当初の意気込みは削がれ、挫折してしまいました。

 ところが、表紙を眺めていて、“田部重治選訳”とあるではありませんか。購入した時は、岩波文庫のことだから名のある専門家の日本語訳だろうぐらいに思うだけで、『シェイクスピア…』の時と同様に、翻訳者のことは全く気にしませんでしたが、たしかに田部重治とあります。

 田部重治(1884-1972)さんと言えば、富山県出身の英文学者で、山岳に関する多数の随筆で有名です。しかし、ワーズワースの研究家だとは知らなくて、いまさらながら我が浅学を恥じるばかり。

 ちなみに田部さんは兄弟姉妹が多かったようで、長兄の南日恒太郎(1871-1928)さんは、明治末から昭和の初めにかけて日本の英語教育に多大な貢献をした人であり、旧制富山高校の初代校長でもあります。

 次兄の田部隆次(1875-1957)さんは、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の研究家として有名です。この長兄次兄の二人は、現在の富山大学の「ヘルン文庫」(小泉八雲が所蔵していた書籍の文庫)創設の功労者でもあります。

 私は、起き上がって畳の上で正座し、改めてこの文庫本を開きました。しかし、やっぱり、詩のリズムが合わず、再び寝転がって、パラパラとページをめくり、田部重治さん自身の筆になる巻末の解説を読み始めました。

 解説では、作者ワーズワース(1770-1850)の略歴に続いて、収録されている56編の詩全部について数行ずつのコメントが書いてあります。

 さあ、そこでです。56篇のコメントに先だって、次のようなことが書いてありました。
 〈この訳詩の内で「七人の姉妹」は、家兄南日恒太郎の訳出せるもので、これをここに拝借することにした。〉

 他の55編には特に訳者の名前は出てこないので、それらはすべて田部さん自身の翻訳でしょう。「七人の姉妹」だけが、他者、それも肉親、しかも長兄の翻訳なのです。

 そして、詩集39番目のこの「七人の姉妹」のコメントでは、
 〈1804年の作。「イーリン」(Erin)はアイルランドの詩名。「スコーシア」はスコットランドの詩名。訳者は声調上用いたのである。〉
 と、田部さんは、長兄南日さんの訳者としての苦心をおもんぱかっていらっしゃる。

 ちなみに、田部さんの和訳とは違って、南日さんの「七人の姉妹」の和訳は、古風な七五調の文語体で、66行あるこの詩の書き出しは、次のように始まっています。

アーチボルドの殿君の
姫はなゝたり一つばら、
かたみに思うそのなさけ
語らば今日も暮れやせん。

 多数の兄弟姉妹を持つ田部さんは、長兄南日さんの訳詩、しかも多数の姉妹をうたっている一編を、どんな思いで詩集に残したんでしょう…。しかも、この詩集の出版は、長兄南日さんが亡くなってから、10年後のことです。

 お陰で、私たちは、この詩集で、富山が誇る偉大な英文学者の華麗な“そろい踏み”に出会うことができます。

 嬉しいことに、この『ワーズワース詩集』は、1938年の初版に始まり、1966年の改版を経て、2007年には79版と増刷を重ね、長く日本人に愛読されてきました。

 補足すると、私には、この南日さんの和訳の、7人のことを“なゝたり”という言い回しが懐かしくなりました。明治生まれで生涯を富山で過ごした私の祖父母の言葉遣いが思い起こされ、胸がいっぱいになりました。

(引用参考文献)
「ワーズワース詩集」田部重治選訳 岩波文庫 2007年1月刊 (第79刷) 「対訳 ワーズワス詩集 ─イギリス詩人選(3)─」山内久明編 岩波文庫 2020年2月刊(第18刷)
「対訳 シェイクスピア詩集 ─イギリス詩人選(1)─」柴田稔彦編 岩波文庫 2004年1月刊

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?