超近代空間へ2

神経症的近代空間から自閉症的超近代空間へ


2012年刊『ユルかしこい身体になる』

情報生態系の中でデジタルネイティブの若者たちは「身体を張って」適応している。整体の観点から描きました。その編集過程で削除した原稿から『情報生態系的空間ーーアクティヴな空間を生きる身体』(2001年『整体 楽になる技術』の削除原稿)の続編といえる部分。

進歩せよという強迫を孕んだ神経症的近代空間は常に「前向きな空間」でした。「前向き」が正しく「後ろ向き」はダメ。前を向くという方向性だけははっきりしていました。福島県双葉町の原発看板「原子力 明るい未来のエネルギー」は、その前向きな空間の中で生まれました。

今や前後左右の方向感覚は失われ、いつどこで何が起きるかわからない不安を孕んだ「自閉症」的空間に私達は生活しています。いつでも誰とでもつながるかも知れないが誰ともつながらないかも知れない流動的空間に、どう適応して生きればいいのか?身体は過敏に応答しています。


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近代とは、とにかく新しいものを求めて前へ前へと進む時代だった。20世紀の初頭、夏目漱石はすでに、世の中がめまぐるしく変わって疲れると言っている。この100年は、古いものを壊し、新しいものを生み出し、人々はその流れに乗り遅れないようについていかなければならないという神経症的な時代だった。

ところが近代とは、古いものを壊して次々と新しいものを作る時代には違いはないのだが、新しいものを作る一方で、古いものを近代的な新しいものを補完する形で再編成してきた時代でもあった。

たとえば、整体は、近代以前からある療法のように思われがちだか、実は、近代とともに誕生した代替療法である。近代化とともに、前近代的な身体技術が体系化され、アメリカでカイロプラクティックやオステオパシーのような代替療法が生まれたが、整体とは、そういった要素も取り込みながら、近代とともに日本で開花した代替療法だった。漢方医学や鍼灸の場合も解剖学なども取り込んで近代的に再編された。

新しいものを作る時には、古いものをすべて捨て去るのではなく、古いものを近代化の構造の中で再編することで、社会全体でバランスをとってきた。たとえば、会社共同体というのも、村落共同体のような失われるものを補完するような形で近代化以降、生まれてきたと捉えることができる。このこと、つまり古いものを改変することそのものが、前に進む原動力となっていた。

それは同時に解体して再編する古いものが尽きてしまうと、前に進めなくなってしまうということでもある。過去100年余りの近代化の過程では、常に新しいものに価値があるとされてきたが、それが1980年代あたりから怪しくなった。何かを評価する時、「これって新しいね」といのがプラスの表現で、「ちょっと古いね」というのがマイナスの意味合いを持っていたが、そういうことを言う人がだんだん少なくなった。「カワイイね」とは言っても、「新しい」と言って喜ぶ人はいなくなった。それまでは「新しい」イコール価値があったが、ある時点から、これが有効ではなくなった。つまり、社会全体としてのファッションあるいはモード自体が成り立ちにくくなった。

前に進むということは、とても分かりやすそうに見えるが、何が新しくて何が古いかがはっきりしていることを前提として、はじめて得られる方向性だった。何が新しいのかが曖昧になると、前へ進む原動力が失われてしまう。改変すべき古いもの(=燃料)がなければ、新しいものを作って動きを得ることができない。もう、前へ進めないということになる。

2000年以降は、このことがより明確になった。たとえば政治について言えば、右派は保守的で、左派は革新的という構造があって、その均衡の上で、何かを新しくしていくというのが、これまでのあり方だった。しかし、もはや右とか左とかいう比較も保守と革新という基準もまったく有効性を失ってしまった。産業界では相変わらずイノベーションとか労働生産性を上げるとか言われているが、そのことが果たして新しいことなのか、良いことなのか悪いことなのかも判断できなくなっている。

社会のあり方が流動的になりすぎて、しかも情報が多すぎるため、どっちが前でどっちが後ろなのかも判断できなくなってしまった。進むべき道筋を示した地図を誰も持ってない、そういう世界だ。そして、近代が新しいものを必死に求める神経症的な時代だとしたら、現代社会はあらゆるものごとが無秩序に共存する、自閉症的空間になっているのではないかと思う。

自閉症的というと自分を閉ざしているというイメージがあるかもしれないが、実は「自閉症」の人は自閉というよりは開かれすぎて閉ざすことができないために困っている。ものすごく音に敏感であったり、いろんなことに過剰に反応してしまったりするために、落ち着けなかったり、コミュニケーションがうまくいかないという見方ができる。現代は情報の洪水の中で生きなければならない時代だ。しかし、これほどまでに情報量が膨大になると、その情報にいちいち過剰に反応していたのでは身が持たない。この情報の洪水の中で暮らしていくには、自分なりの情報への接し方のルールを持たなければならないのだが、そのルールを見つけることは困難だ。そうなると誰もが、秒刻みで変化する膨大な量の情報に過剰に反応せざるをえない、そういう意味でこの社会の環境自体が自閉症的空間と言えるのではないかと思う。

世界にはますます多様な価値観が共存し、流動化し、カオスのさなかにある。


場の空気がコロコロ変わる中で「空気を読む」ことを迫られる

そして「暗黙のルール」が飲み込めない


日常的なコミュニケーション空間自体が、胸の真ん中のセンサーを過敏にする動因になっていて、人と人の間の微妙で流動的空気を生み出し続ける。

前章で、’90年代にはすでに、学生がお互いに意見を戦わせたり議論したりする習慣がなくなっていたといったが、その理由は、議論をしてたとえ喧嘩になったとしても大丈夫だという保証=共同体の規範がなくなったからに他ならない。地域コミュニティ、学校や会社、家族でもそうなのだが、かつてのように、これくらいは大丈夫という暗黙の了解、つまり一定の共同体的な枠組みが機能していれば、安心して、喧嘩することができた。暗黙の安定した「手加減」のようなものが確かにあったのである。ところが、そういう枠組みが、徐々に流動的になってきて、意見を戦わせたら、ひょっとしたら人間関係が壊れてしまうかもしれないという雰囲気が生まれ、人々は段々、争わなくなってきた。

共同体的枠組みがほとんど機能していない今日において、集団の中でうまくやっていくには、自分が話している相手や、自分の周囲にいる人々がどう考えているか、何となく空気で感じて、それにあわせる以外に方法がなくなっている。そして、この空気を読むということは、やはり胸の真ん中(膻中―胸椎5番)で行うことになる。空気を読んで、周りを盛り上げて、空気が重くならないようにしなければならない。誰かが、場違いなことをしてしまうと、空気が重くなる。そういうことが続くと空気が固まるということになるのだが、空気が固まるという現象を、身体の側から見ると、胸の真ん中がぎゅっと縮み、息苦しくなる症状となって表れる。逆に空気が和めば、胸の緊張もゆるむ。

若い世代の中では、自分や他の人が何かひとこと言うたびに、あるいは何かをするたびに、空気が固まる方向に動いたのか、和む方向に動いたのか、自分の胸の反応でモニターしながら(無意識のうちにだが)、集団の中で行動するようになっている。また困ったことに、この場の空気というものはコロコロと変わる。会社でも学校でもその集団における行動規範が薄くなっているため、その場その場で変わらざるを得ない。

さらに、これも前章で触れたが、今の若者たちは幼い頃から情報が肥大化した社会で育ってきたため、情報センサーである胸の真ん中が非常に過敏になって、あらゆる刺激に対してとりあえず敏感に反応する。誰もが自閉症者が向き合っているような情報過剰で流動的な空間感覚に近づいていることになる。自閉症者は空間の秩序を適当に、あるいはいい加減に把握することが苦手であり、「ことばの表裏」が理解できない「場の空気が読めない」人になりがちになる。これは、若い人の誰もが感じているヒリヒリした空気なのではないだろうか。

「いいかげんいしろ!」、「出て行け!」は、いい加減にすれば良いという意味にはならにし、出て行けばいいという意味でもない。すごく怒っているという意味なのだが、表裏の意味を一緒に言われてしまった側は、このことを理解できない。'90年代の後半の話だが、「学級崩壊」が問題化していた頃、小学校低学年の学級で「どうして先生のいうことを聞かなければいけないの?」といわれて絶句したという先生もいた。胸が過敏化した若者の感受性は「宿題を忘れたら廊下に立たせますよ」と言われれば、簡単に廊下に立っている方を選ぶ可能性が高い。廊下に立つのが罰であり恥ずべきことだということが、デフォルトではなくなっているのだ。

こういう無反省な態度では、またさらに怒られるのは目に見えているが、怒られた側はその意味が理解できない。教師の側にとっても難しい。先生が主導できる空間でもないのだ。年長者にとっての暗黙のルールを受け入れるには暗黙のままでは難しい。ルールの構造を一つ一つ「目に見える化」していく必要がある。

コロコロ変わる場の空気についていくことに適応してきた若者にとって暗黙のルールという目に見えない構造は不可解であり理不尽だ。ただ場の空気が重くなったのか軽くなったのか必死に胸で感じるしかない。実際何の理由もなく習慣だから続いているに過ぎない仕事上の「ルール」もたくさんある。

仕事や社会行動上のルールも初心者の若者から見てもわかりやすいように、あるいはいろいろなタイプの人に合わせて、いろいろな方向からわかりやすく「見える化」出来れば、ユニバーサルデザインのように使い勝手の良いものになるのではないだろうか。

いまや自由や平等といった近代の基本理念すら自明ではない。ある人の言う自由は、ある人にとっては迷惑であったり、場合によっては虐待でもありうる。複雑かつ流動的な空間の落ち着きの悪さを解消しようとして、わかりやすい考え方や主張にしがみつきたくなるのも無理からぬことだ。その正しさには危うさもつきまとう。「正しさ」をていねいに開いていきたいものだ。

難しい議論には無関心に見える若者たちこそが、「正しさ」に対するひとりひとりの微妙な違和感=身体感覚の深みから、何度でも「正しさ」を組み立て直すことの必要性とその難しさをヒリヒリと感じているのではないだろうか。

身体のセンサーの過敏化は、反応疲れ、共感疲れも生むが、共鳴・共感の深みから混迷の中にも正しさのありようを生む可能性もあるだろう。

(2011年、2018年11月加筆)、写真/筆者撮影




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