いま飛行機が静かに横切った

前に別の記事にも書いたが、私は小さい頃からとにかく毎日疲れていて治ったことがないという人生を送ってきた。とはいえ一応動けるし、微熱もないのでたぶん慢性疲労症候群とも違う。
もう少し詳しく言うと、朝起きたときが一番しんどくて、外に出ると急にマシになる。うーんよく寝たすっきりぱっちり、みたいなのは私には夢のまた夢だ。地面に縫いとめられるがごとく体が重く、だるい。だから朝は起きられない。
いろんな薬を飲むことでマシにはなったけれど、依然苦痛ラインを優に上回る疲労感が全身にまとわりついている。意識がある限りなくならないがゆえに、時として死にたい発作の引き金を引くことすらある。でも一応動ける。動けてしまう。
いろいろと試したり考えたりしてみて、存在している限り私の疲労感はなくならないのだという結論に至った。

そんな「存在疲れ」の正体について、仮説を急に思いついたのはつい最近の話だ。今まで「存在しているだけで体がしんどい」とずっと絶望していたけれど、実は正しくは「存在していることこそがしんどさの原因」なのではないか。

え?差がわからない?

もう少し正確に言うと、「この世に存在している感覚」「自分の体がここにあるという感覚」が疲労感の原因なんじゃないかということだ。これは、こんな荒んだ世の中に生きてるのがつらいみたいな精神的な意味ではなく、もっと物理的な意味でだ。
姿勢を保ったり、バランスをとったり、重力を感じたりといった方面の感覚、五感とおそらく並列関係にあるであろう(詳しくない)そういう体の感覚について、私は相当な感覚過敏(あるいは感覚の異常)を抱えているのではないか、という話だ。

私は専門家ではないので、この仮説が正しいのか、他の人にも当てはまる話なのか、よくわからない。単に自分個人の感覚と対話してみてそうかなあと思ったことを書いているだけだ。でもこういう風に考えると、自分の抱えている問題とか、なんとなく持っていた嗜好とかに説明がつくことが多い。

だいたい疲労感疲労感と言うが、具体的にはどんな感覚なのよと自分に問うてみれば、かなりの割合を占めるのが「体が重い」という感覚だ。自分に手足があって、それらに質量に応じた重力がかかっていて、というのを、覚醒したての頭もはっきりしないうちに布団の中で感じるのが一番つらい。
一方で、頑張って準備して外に出たり、何かに没頭したりするとその重さはどこかに行ってしまう。ぐるぐると考え事の中に引きこもったり、連想ワールドの中で飛んだり跳ねたりといったADHDお得意の脳内多動も、私の場合は疲れるというよりはむしろ癒しの側面の方が大きい。詳しくは後述するが、やはりそれは別の物事に集中することで重さの感覚を忘れられるからだろう。
逆に言えば、重さの感覚をしっかりと真正面からダイレクトに感じる羽目になるとダメージを食らうことになるわけだが、それが頭がろくに働いていないために感覚ばかりが入ってくる起き抜けの時間ということになるのだろう。

重さの感覚をじっくり感じるといえば、マインドフルネスとか瞑想とかと呼ばれるものが思い浮かぶ。
私はちゃんと習ったことはなくて、なんとなくの理解だから間違っていたら申し訳ないのだけど、「今ここの体の感覚に集中する」とか「体の重さを感じる」というのが、あの辺をちょっと調べた時に頻出する基本のキーワードのようだ。そういうことをすると、リラックスをはじめとしたいろんないい効果があるというのが一般に言われていることだけれども、私の場合は見よう見まねでちょっと試してみただけでどうしようもなく拷問レベルにつらいのだ。そしてすぐやめてしまう。
あまりにも上手くいかないものだから「マインドフルネス つらい」とかで検索するのだけど、同じような感覚の人が嘆いている記事とかはついぞ発見できなかった。だから長年謎だなあと思っていたけれど、重さの感覚がそもそもしんどさの源であったならば、そこにわざわざ意識を向けにいったらしんどいのは当然だ。

そんな風なことに思い至り、早速適当にネットの海に潜っていたら、
「前庭覚」(=いわゆる平衡感覚。揺れや重力や傾きや速さについての感覚)
「固有覚」(=体が今どこにあってどう動いているか、どのくらい関節が曲がっていてどのくらい筋肉に力が入っているかの感覚)
「重力不安」(=重力を感じる、重力に逆らって動くのが苦手。地面に足が着いてないとか、高いところのものを取るのが苦手)
といったキーワードを拾ってくることができた。ちなみに各キーワードの概要の正確さにはあまり自信がない。いろんなところを読んでこんなもんかなと思っているだけなので…。

いやしかしこれらの異常というのはまさに私である。

小さい頃ブランコも滑り台も平均台も苦手だった。ジャングルジムも。
家の中のちょっと段がでかくて急な階段も怖かった。
本屋さんで読みたい本が自分の背丈よりも上の方にあるとものすごく心臓バクバクで手に汗をかきながら手を伸ばしていた。
縁石に乗るぐらいなら好んでやっていたが、縁石から縁石に飛び移るとかは怖くてできなかった。
川にかかる丸木橋なんて絶対渡れないし、飛び石とかも落ちる想像しかできない。
就職してからは脚立に乗る機会が増えたがあれも正直かなり苦手だ。

昔流行ったローラーブレードも買ってもらったはいいがあんな怖いものだと思わなかったし、練習してもついぞ滑れるようにはならなかった。
その後で流行ったローラーシューズも、友達に借りて履いてみたら怖すぎて動けなくなったんだった。
自転車の座席の高さも低すぎるとその場の全員から総ツッコミを受けるくらい、ブレーキをかけた時に両足がベタッと地面に完全に着く高さでないと、とてもじゃないけど怖くて乗れなかった。

絶叫系は一回乗ってトラウマになったし、高速道路や新幹線で速さを感じるのもダメだ。
車は小さい頃よくマイカーに乗せられて出かけていたから、なんとなく自宅の延長のような感じで受け入れていたけど、免許を取るにあたって自分で運転してみてマジでスピードが出てるということをしっかりばっちり認識してしまってからはわりと怖くて仕方がない。
電車も、世界認識がわりとおかしいので、普通に乗っているときは猛スピードで移動する箱の中にいることを忘れている(だって私はただ改札を通って、扉をくぐって、座席に座っているだけだよ)から怖くないのだけど、先頭車両で前の窓を覗いて、レールの上を爆速で走ってんだなあということを意識すると途端に足がすくむ。
ただ不思議と乗り物酔いだけはなぜか全然しないほうだ。

とまあこんな風にぶわぁーっと昔の思い出が蘇っては一つずつ小さなジグソーパズルのピースとなって全部つながった。絶対に私はその辺の感覚がおかしい!

他にも、じっと椅子に座ってるとタイムショックみたいにくるくる回るような感覚(本当のタイムショックほどぐるんぐるん回るわけではなく、もっと弱いけど)がしたり、普通に立って歩いてると一瞬だけめまいがしたようになったり、地震じゃないのに揺れてる気がしたりする。
自分のいるはずのところ(理性的に考えて動いてないはず、だってそこには椅子や地面があって体を支えているから)から自分の体がここにあるという感覚がしばしばずれて、飛蚊症のように視線を動かすたびにリセットされるけどすぐまたずれてくるといった感じだ。
さらに、疲れていると(基礎的な存在疲れを除いて追加の疲れが激しいと)感覚的な自己位置が地面から3cmくらい浮いたままになる、というやつもときどきある。


この辺のことを前に精神科で相談したときは、「自律神経がおかしくなってる」で片付けられてしまったけど、そういえば薬はまったく効かなかったんだった。
それに、同じような症状の人がググってもなかなか見つからないのは、感覚的な問題だからなのか、大人になってもここまでこういう感覚の問題を引きずっている人は少ないからなのか……。ググっても小さい子の話しかなかなかヒットしない。

過集中から抜けたときというのはみんなふわふわした、まるで雲の上を歩くような浮ついた感覚がするものだろうと思っていたけれど、そうでもないのだろうか?どうだろう?
私はあれを一種の疲労感だと思っていたけれど、実はそうではなくて(たしかにそういうとき疲れてはいるのだろうけど、あの感覚こそが疲労感というのではなくて)、単に集中しすぎて自分の位置情報を忘れていたのを取り戻してるだけなのではないかという説も浮上してきた。

ところで、私は昔から〈身体という硬い外殻があって、普段はその奥深くに「魂的な何か」が引きこもっていて、外部の人に接することになるようなときだけ、瞬間的に高圧ガスを注入して一気に魂を膨らませて、外殻にフィットさせている。人がいなくなると魂はみるみるしぼんでいく〉というイメージを持っている。
ちなみに、魂が外殻にフィットしているとそれなりに真人間のふりができるのだけど、家の中とかで魂がしぼんでいるときは、外でやっているような形でコミュニケーションをとることがなかなかできない。対家族とか。


話を戻すと、過集中しているようなときというのは、体の感覚がかなり曖昧になる。外殻の現在位置情報が霞んでしまう。自分自身が魂だけになって、今のめりこんでいる対象である物事以外他に何も、時間も空間も他者も存在しない世界のなかで、その物事と向き合っているような、そんな感覚(なんだかスピリチュアルっぽくなったがそういう話ではない)。
そのときだけはあのいやな重さを感じなくていいから、過集中するのは正直好きだ。してしまうと社会的に困るような場面も多々あるけれど、過集中の感覚はあまりにもおいしそうな餌なのだった。

以上の話から推測が容易なことだとは思うが、私はスポーツや運動と名のつくものすべてが死ぬほど嫌いだ。いわゆる運動神経が悪い(うまくできない、下手)というのももちろんあるけれど、体を適切に動かそうとするとどうしたって体の感覚に集中せざるを得ないのがたぶん根本的な原因だ。
そんなんだから球技や持久走はもちろんいつでも学年でもドベのビリッケツだったし、運動嫌いが運動の楽しさに開眼する運動ナンバーワン(たぶん、聞くところによると)であるところの筋トレでさえ、筋肉がつき始めるほど続いたことがない。
その好きになれない運動の中にも、相対的な好き嫌いや興味の有無はあって、まだ比較的好きだったり、やってみたいなあと思ったりするのは、なわとび、ボルダリング、あと無理をしないジョギングやウォーキングだ。それでも、私の好きなことの最大楽しさを100とすると、体を動かすことの最大楽しさは3ぐらいだ。

ついでに主張しておきたいのは、これを読んで、またここにも学校体育の哀れな犠牲者が一人いるなあと思うのはやめてほしいということだ。体育の授業は確かに嫌いだったけど、たとえマイペースで取り組もうとも、マンツーマンで理論的に教えてくれる褒め系コーチがつこうとも、3は3なのだ。
本来体を動かすことは万人にとって必ず楽しいものであって、体育の授業が少なくない人からそれを奪っている、という考え方は不正確だ。「万人にとって必ず」というところが。たしかに体育に運動の楽しみを奪われてきた人はたぶんかなりいる。でも、真の運動嫌いというのもまた存在する。無視しないでいてくれたらうれしい。
そして、私にとっての運動のように、どんな物事にも、たとえその真髄に触れることができたとしても、それを好きになれない人というのは一定数いるのだろうなあということは忘れずに生きていきたい。好みの押し付けダメ絶対。

また話がずれたからまた話を戻すと、嫌いな中でもまだ比較的興味のある運動が少しあるとさきほど述べたが、興味がある理由を考えるとそこにはある共通点があるというのがちょっと面白い。
例えば、なわとびが好きなのは、あの100均で売っているような安い子供用のなわとびが、透明チューブに蛍光色の二重螺旋構造が入ったような妙なつくりをしていて、見ていて面白いから。
ボルダリングならやってみたいなあと思うのは、壁に埋め込まれた石のような突起がカラフルで可愛いから。
無理しないランニングならありかなと思うのは、音楽を聴きながらやれるから。
おわかりいただけただろうか。共通点というのは、視覚的な強い印象だとか、聴覚だとか、何かしら他の感覚への入力があることだ。どうも、それによって体の感覚そのものや、予期不安のような苦手意識のようなものを緩和することができているような気がする。
付け加えると、体を動かしていることには変わりないのに、こまごまちまちま手先を動かして何か作ることになら没頭できるのもたぶんそのためだ。

しょうもないことのように思えるが、ここに私が(そしてまだ見ぬ同じような感覚過敏に悩まされる仲間たちが)もう少し生きやすくなるヒントが隠れている気がする。
つまり、例えば私は嗅覚に関しては鈍麻気味であって、香料の強い香りが結構好きなのだが、部屋を好きな香料で満たしたうえでなら、筋トレも続けられるのではないかとか、いい香りのシャンプーや石鹸に重課金すれば、嫌いなお風呂も少しは好きになるのでは(不潔なのは困るのでしぶしぶちゃんとしているが、清潔さを保てる原理不明の不思議な力が手に入ったら今後一生お風呂に入らないのに…)(そもそもお風呂嫌いも、服の着たり脱いだりとか、肌や髪の濡れたり乾いたりとか、温まったり冷めたりとかの、触覚のめまぐるしい変化に対する弱さに起因しているのでは?)とか。

また別の例を挙げると、聴覚もどうも鈍麻だけど刺激されるのは好きだ。ところで聴覚過敏の人とかその主観的な体験談ってわりといっぱい見かけるけど、鈍麻の人の詳しい記述って今のところ見たことがない。だからそれなりに詳しく書いてみようと思う。
静寂の中のちょっとした物音では集中が途切れたりはするものの、元からざわざわした場所というのは全然平気だし(ストレスにならないという意味では平気だが、話の聞き取れなさは発揮されてしまうのがつらいところ)、なによりも音楽の好みがHR/HM寄りにあまりにも偏っている。ヘドバンが似合うような曲を聴くと、テンションの上がりやシャキッと感もあるにはあるけど、ほわっとするというかほっこりするというか、なんかこう癒されを感じてしまう。
反対にゆったりして温かく柔らかい雰囲気の音楽は、聴いているとじれったいというかつまらないというかで却って疲れてしまう。とかね。癒しの形は人それぞれだ。

癒しといえば、チェーンブランケットは日々の存在疲れを癒してくれそうなアイテムとしてかなり興味がある。これは鎖の縫い込まれた重たい布団であって、決して安いものではないのだけど、押入れの中の布団に挟まるのが大好きだった私としては絶対イケると踏んでいる。同じような思い出のある人はたぶん圧迫とか重さとかで癒される性質の人だから是非ググってみてほしい。

まとめると、苦手な感覚が強く感じられて毎日がしんどい人は、その感覚が生まれる原因をできるだけ取り除いて毎ターンのHPの削られを弱めたり、別の好きな感覚でHPを回復させてあげたりするのがいいんじゃないかということだ。

そういえば、脳内多動の話をしていなかった。
エンドレス脳内音楽とか白昼夢とかぶっ飛び連想ゲーム、コンサータで一度落ち着いたのに、普通にそのあと復活してきてすっかり元通りになってしまったのも、これらが私の場合は存在疲れから身を守るための防御機構のようなものとして働いていたからなのかもしれない。自分で自分の気を逸らし続けていたというか。これも癒しの一つのあり方のようだ。
思えば、頭の中が騒がしいとは言われてみたら思うものの、それがあまり強い苦痛だと思ったことはなかった。たぶん私の場合、そんなことより存在するほうがしんどいようで、頭が暇になって、存在の感覚を覆い隠せなくなったときの方がつらい。

さらに、コンサータを飲み始めてからは、不思議なことが起こっている。ツイッターの読んだり書いたりとか、ブログに上げる長文記事の打ち込みとかに、以前にもまして異常な勢いでのめり込んでしまうようになったのだ。
過集中による麻酔効果のためか、昔からやっぱり文章の読み書きに取り憑かれてしまいやすいほうだったけれども、それが酷くなったのは一体どういう仕組みだろうかとずっと考えていた。全ての元凶が感覚の異常なのであれば、コンサータとかストラテラが魔法のように効いてもよさそうだったからだ。実際コンサータを足してからは、服用レポ記事にも書いたけど、世界が主に視覚的に刺さってこなくなる、音楽の聴こえ方がなんだかマイルドになるなど感覚的な変化も確かに一部あるにはあった。でも存在疲れは結局あんまりよくならなかった。


この問題の答えに気づいたのは、コンサータを27mgに増やして数日後、うっかりツイッターにのめり込み、3時になっても眠れなくなっていたある夜中のことだった(遅起きしてから服薬してるのでまだ薬効が切れていない)。
いい加減寝なければとスマホを置いて目を閉じると、変な表現だが、爆音の静寂に襲われるような感覚がした。部屋の中に、突き刺さるがごとき書体の「シーン」という描き文字が浮かんでいて、その体表を覆う百の目玉が一斉にこちらへ視線を向けてきたような、そんなイメージ。非常に侵襲的な体験だった。
あ、私はこいつから逃げるためにずっとスマホを触っていたんだ、と気づいたのはほぼ同時。さすがADHD薬、ちゃんと脳内多動を鎮めてくれてはいたらしい。ただその分減じてしまった感覚的な「麻酔」効果のために、何かっていうと過集中をしてしまうようになっていたのだった。たぶん。おそらく。

私には脳内多動が必要だったのだ。 いや、本当はないほうがいいものではあるんだけど、痛みに苦しむ人がモルヒネとかを常用しないととてもじゃないけど生きていけないように、存在疲れから気を紛らわせるためには脳内多動に依存して生きて行かざるを得なかったのだ。そんな気がする。
だから私にはコンサータよりも、どっちかというと重さの感覚過敏を取り除いてくれる薬のほうが必要っぽい。そんな薬があるのかは知らない。あ、いや休日の過眠問題の解決にはコンサータは不可欠だったから、断薬するわけにはいかないのだけれど。

なんかずっとよくわからないけどとにかく生きてるのがつらかったのが「この世に存在してることがしんどさの源なんだ」と気づくのにまず20年ほどかかったし、そこからさらに5年ちょっと経ってやっとそれが精神的な問題というよりは感覚の問題であるらしいことがわかった。
もちろん、精神的な問題が全くなかったわけではないけど、現在の時点では、純粋なメンタルの問題はほぼ解決していると言ってもいいんじゃないかと勝手に思っていたりする。医師から寛解宣言されたわけではないけれど。
でも自己否定的に死にたいと思い悩むことって実はもうかなり減っていて、せいぜい希死念慮の引き金になるくらいだ。そして実際に死にたい発作に入ってしまったときというのは、ただ意識のシャットダウンこそがこの感覚の牢獄からの救いという考えが壊れたように無限ループしてしまっているだけ、のような気がする。ここしばらくは発作を起こしてないからどうだったかよくわからない。

以上、自分の記事史上たぶん一番長くなってしまったけれど、このことに気づいてから、なんかちょっと生きるのが楽になった。気がする。