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迷う、はまる、抜け出せない

書きたいことを書く。誰もが思う一つの理想郷だ。しかし現実に書こうと思った時に「これ、面白いのか」「もう少しいいものが書けるはず」といった罠にはめられ停滞をしてしまう。そんなあれやこれと日々格闘していたら一つのnoteを見つけた。

書いては消し書いては消しを繰り返し、どうしたらいいか分からないという記事だ。自分にもこの経験はもちろんある。少なくともじぶんの4月のnoteはだいたいそういう感じだった。

 変えることになったきっかけは「このままじゃ埋もれてしまうしnote応援部(非公式企画)に取り上げられたことをチャンスと捉えよう」だったと思う。そこで思いついた手段が「とにかく記事を毎日書いて存在感を出そう」とかだったと思う。結果として(毎回の記事のクオリティはとりあえず置いておいて)だんだんと見てくださっている方が増えているし、2,3日前の種を見つけるのときのようにひどく迷っている日はあるがその日中に上げる(しかも自分の場合は出勤前までにという目標がある)ことを課している以上以前よりも迷う時間が減った、むしろ時間制限があるので迷うどころじゃないと感じている。クオリティあげたいです。

 とここまではこういう書き物で収入を得たことのない素人な自分の話ですが、ライターの皆様にとっては自分のようなものとはどうも感覚のレベルが違うのではないかと思う。ライターの仕事というのはいまいち想像がつかみにくいが顧客に対して「ある特定のテーマ」を与えられ、そして完成度の高いものを「納品」するというイメージがある。納品するためにはそれなりのクオリティを毎回求められるだろうし書く側もそれに応えなければならない。

 そのような仕事の日常を繰り返していって今度はnoteでも書こうかと言う話になる。

ライターと素人の大きな違いとして普段の仕事において「納品」したものを見ているということだ。誰からもチェックが入るわけではない。少なくとも自分で自分が書いたものをチェックすることになるのは素人も同じだ。ただし審査をするにあたってライターは「仕事で納品した」ものたちを基準に物事を考える。その結果クオリティをもう少し上げられる、あるいは読者にはこうもう少し内容を加えたほうがいい、どうも内容が違うなどなど、おそらく自分よりも高いところで物事が見えているんじゃないかと思う、そして見えている基準が高すぎるゆえに (素人よりも見えすぎる) 欠点が見え自分よりも深いところにはまっていく・・・。

 また仕事以外で書くというのは仕事と違い締切がないのも大きな理由の一つかもしれない。普段は仕事に追われカレンダーを見て「締切がこの日だからこれをこうして」と考えなければならない。ところが仕事以外のことについては自分が設定しない限り締切がない。自由だ。いつでもいいという自由がさらに迷う時間を増やすことにつながってしまいより深いところにはまっていくのではないかなと思う。

 このように仕事で書き慣れているだけにハマっていく深みもあるのかなと思う。もちろん自分たち素人にも同じことは当てはまる。基準とするものの理想像をついつい高くしすぎるということだ。ただこれは現物でもないしあくまでも空想上のものである。その結果、理想像を上げたり下げたり自由にできる。ただ「納品」したものは現実だ。現実はそんな簡単に動かすことはできない。








#日記 #それでも続く迷いの森と日々戦います #クオリティ #note

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