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原爆の図丸木美術館を初めて訪れて

これまでも学校図書館で夏に「戦争をさせない本」コーナーを作成したり
原爆についての資料を集めたりしているときに、存在と絵本の絵は存じ上げていた丸木位里・俊夫妻。

新聞で丸木美術館の存続危機の記事がまだ頭に残っていて、
濱野京子さんの小説『トーキョー・クロスロード』を読んで
グループ行動から抜け出してまでどうしても行きたかったという
辺鄙な場所にあるその美術館で、その原爆の絵と対峙してみて
自分にはどんな言葉が浮かんでくるのかを知りたくて
今年の五月の連休にオットに頼(みこ)んで連れてってもらいました。

朝の6時前に家を出て、到着したのは開館直後。
遠いし、最後の道も細いし、ひとりだと辿り着くのは困難だったと
思われます。

誰もいない館内。二階に上がって、屏風がいくつも展示してある部屋で
墨のような濃淡の世界に入り込みます。
よく図書室で展示する『ひろしまのピカ』の絵本の表紙が
燃え盛る炎の中の母子像なので、赤い絵なのかと思い違いをしていました。

丸木夫妻は広島で実際に自分たちが見た光景を、自分たちで再現しながら
描いています。

その時の広島では、戦争が15日に終わろうが終わるまいが、変わりはなく
考える力そのものも失われていたそうです。
一生かかっても描き切れないほどの人間が、ただ一瞬の一発の原子爆弾で
亡くなったという事実。

地上ですら6000度にもなり、絵の中には、大勢の人だけではなく
明らかに赤ちゃんだと思われる子どもや、犬や猫もいました。

自分たちも息も絶え絶えで被災しているのに、担架を作って
救出作業をしている人、祈り手を合わせているひと、
そして、無数の手足が飛び出すように積まれているご遺体の数々に
火をつけている様子も描かれています。

積み重ねられた遺体は、それぞれ体の肉付きも違うし
指の曲がり方も違っていて、
このすべての手足の先に、各々の人生があったことを
思い知らされます。

ここに来て初めて知ったことのひとつに、遺体を積み上げて路上で火をつける際に、足の方を外側にして、頭を中心に据えて死体の山を積み上げていったこと。理由は、眼や口や鼻がなるべく見えないように。

中には、目玉を動かしてじっと見ている人がいたとか。
その方がまだ生きていたのか、それとも蛆虫が動いただけなのかは
もはや知る由もありません。

戦争の児童文学でも、何度となく出てくる母子像。
もうお母さんは亡くなっているのに、胸を吸っている赤ちゃんの話。
死んでいる赤ちゃんを抱きかかえているままのお母さん。
自分亡きあと、路頭に迷うだけだから、と子とともに炎の中へ歩む母子。

命をつなぐはずの母と子が、途絶えさせられてしまう。

今回初めて知ったことのふたつめは、遺体の焼却の手も足らず
そのままになっていたご遺体が、9月になってもまだそのまま放置されていて、台風が来て、たくさんの屍がそのまま海へ流れていったという事実。
防火水槽に突き刺さった足のご遺体も、道端で倒れたままの人も
一応は全員が火葬されていたものとばかり思っていました。
9月になっても、そのままだったなんて。

暗黒の空に虹が出ていたことも、知りませんでした。

家の下敷きになり、親は子を、妻は夫を捨てて逃げることも少なくなく、
だけど不思議なことに、母親が子どもをしっかり抱いて、母は死に
子どもは生きていた、という人たちをたくさん見たともいわれていました。


あの日、屍に満ちて、流れた川に、灯篭を流している。
今日の平和祈念式典でテレビに映っていたあの、川。

あの日、原爆が広島に落とされた日に、23人の米軍捕虜がいたことは
知っていましたが、彼らを日本人が虐殺していた事実も、ここに来て初めて知りました。

男か女か、表か裏かもわからないような焼けただれているご遺体なのに、
この人は朝鮮人だから、といつまでもご遺体を回収しないでそのままにして
それをからすがついばんでいたという事実も、ここで初めて知りました。
酷いけがをしていて、「アイゴー、オモニ」と口に出していても、
放置したそうです。

韓ドラ愛好者をしては、その言葉は、苦しい。
最期に呼ぶ人は、みんな同じではないか。。。

死してなお、差別をしていたとは。
ここが、一番原爆の絵の中で衝撃でした。
地獄の中で担架で救出しようとするのも人間で、
自分より更に貶める相手を見つけるのも人間で、
そもそもその災厄を作ったのも運んだのも落としたのも人間。

。。。。。

同時に開催していた版画展では

「日本の原発は安心です!」
「原発はエコで経済的です!!」
「直ちに健康に被害はありません!!!」
と書かれてありました。

折しも、今日、、、、
よりにもよって我が国の総理は、平和祈念式典でのあいさつで
原爆を原発、と言い間違えました。
こんなディストピア、小説だったら、とっくに読むの止めてます。


。。。。。

丸木美術館には原爆の図以外にも、水俣やアウシュビッツ、南京の絵もあります。

アウシュビッツは、400万人を虐殺して
組織として機能させられました。
組織のひとつの部品として、そつなく殺していったのは
個人なのに。


原爆の図よりも、見るのが辛かったのは、南京大虐殺の大壁画。
このショックが大きすぎて、5月の来館からこれまで、
記すことすら難しかったのです。でも、8月6日までには、
必ず備忘録を書いておきたいと思っていました。

ようやく宿題に取り掛かれた気分です。


南京では35万の非戦闘員が殺されたともいわれています。

なぜ丸木夫妻がこの題材に着手したかというと、原爆の図をアメリカで
展覧会に持って行った際に、では、日本の加害である南京のことは
どうなのか、と問われたからだそうです。

女性として、戦時中に女がいったいどんな目に遭わされたかということを
記録しなければという使命から、俊さんを中心にして描かれたといいます。

これまでの、女の人が酷い目に遭った、その上で虐殺されたという知識は
この壁画の前で、なんと甘っちょろいものだったのかと頭を殴られる思いがしました。


後ろ手で縛ったうえで首を刎ね
ひとりの女のひとを裸にしたうえで、四人の兵士が
それぞれ手足を引っ張り
命の源に銃剣を貫き通す。
吐き気とめまいがしてくる惨状が、とてつもなく大きな壁画に
びっしりと描かれている。
これでも、描き切れていないのだと、伝わってきました。


今年の新聞で、新たに分かった事実のひとつとして
なぜ、沖縄の地上戦で、米軍に降伏するな、降伏すれば
男は捕虜になり女は辱められるから、そうなる前に自決しろというのが
徹底されたかというと、中国の戦地から沖縄に行った兵士たちが
そのように伝えていたから、という資料がみつかった、ということ。

要は、自分たちが中国でそういうことをしてきたから
アメリカ軍もそうするに違いないから、先に死ね、と。

いったいいくつもの加害を重ねてきたのだろうかと
暗澹たる思いがしました。

ただ、実際に、沖縄では、組織的な戦争が終わった後でも
女の人の叫び声が聞こえてこなかった夜はない、との証言もあるので
戦争という状態での常態、ということなのでしょう。


学校図書館の司書業務を行う者として、親として
核の非人道性と、広島市長もおっしゃっていたように
持続可能な社会と核兵器は共存し得ないとの認識を
次の世代に伝えていきたいと、強く思います。


2021年 8月6日





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