Day2 仕組みというか、システムというか、現象というか、構造というか、、、と自由

「移民する本」は、移民というシステムというか、現象というか、構造というか、をモデルにして「所属先が曖昧になるときの感性」を考えようとしている、ような気がする。(この場合、個人的な感性もあれば、集団的な感性の場合もある。)という一文から今日は初めてみようとおもう。

移民という言葉は、どうしても政治的、社会的な問題に意識をフォーカスさせずにはおかないトピックのひとつだ。けれども、「移民する本」は、政治が政治の力を発揮する所以となる、社会がコミュニテイ間の葛藤を無視できなくなる、その源にある(よりプリミティブな)環境と心の関わり方の仕組みを見ようとする行為であり、決して移民政策にまつわる問題を提起したり炙り出すようなタイプの企画ではない。なので、この言葉をタイトルに組み込むことは誤解を招きかねず、最後まで迷った。けれど、どのような関心の対象にも、社会的な仕組み見せてくれる側面と共に「個人的な世界の作られ方」を見せてくれる側面がある。

抽象的な対象について考えていくとき、この両者のどちらを扱おうと、一方が「対象」から消えることは無い、ことを信じて「移民」という言葉を残した。


けれども、残した以上は「移民の社会的な仕組み」とまったく無関係なわけはもちろんない。では、どこが引っかかって、あるいはどんなところが想像力を牽引して「移民」に触り続けているのか?そこのところを整理しておこうとおもう。

移民とは、様々な事情で、異なる国家や異なる文化地域へ移り住む(移住する)人のことを指している。国境を超えて移住するため、どのように迎え入れられるのか?は、受け入れる国によって異なる。

カナダやオーストラリアのように「多文化主義」を掲げて、積極的に移民を受け入れている(いた)国もあれば、心情的には民族の違いを受けいれないままに労働力としてなし崩し的に受け入れている国など、移民の置かれている状況は様々である。受け入れるにしても、それぞれの民族や人種の文化や習慣の差異の境界線を際立たせながら共存している場合もあれば、より互いにミックスしあい、土地元来の(と定義されている)文化や習慣を書き換えて行く場合もある。

また、民族や人種、それぞれのコミュニティの存在を許容した上で、公用語は受け入れ国の言語を教育し、受け入れ国の法律による様々な制約を課される場合もあれば、それぞれの民族や人種のコミュニティ自体を、より独立した形で受け入れ、財政援助もするという受け入れ方もある。対して、そもそも不法侵入者として扱いながらも、帰国しづらい仕組みで囲って安い労働力として確保しつづける打算が見える場合もあるようだ。

受け入れる国が歴史的に植民地支配下に置かれていたかどうかなどでも、培った背景が異なり、一様に「移民」を語ることはできない。

こういった「多様な問題」は、個別の事情を調べていくだけでも、不謹慎ながら相当におもしろい切り口が出てくる。

労働力とはどのような価値なのか?

人格や人権とは、何によって保証されたり、はっきりと認められるのか?

「独自の文化」は権威なのか?

アイデンティティは何に依拠するのか?

経済って?資本主義って?民主主義って???

いろいろ、いろいろ。。


けれど、おそらくは、どこから切り取っても「自由」について考えさせる。

心が「   」に所属することと、それ故に自由を失うこと。

そして、「   」という所属先から離れようとすることと、自由を獲得しようとすること。

自由を感知するときの物差しとなる「本当の私」が居るという感覚。


人間は、構造に自由を奪われ、それ故に、あたらしく異なる構造を探しに外に出る。

その動きへの関心から「移民する本」は出発している。






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