見出し画像

カーテンの閉まった薄暗い部屋

いつもnoteを書くときに心掛けていること。



どんな形であれ、読み手の明日にチカラを与えられる文章にする。




ということ。






先週、私はnoteが書けなかった。今までは何があっても書けていた教訓や学びが、どの毎日を並べても無かったから。無いわけではないけど、先週の私の目にはどん詰まりの前しか見えなかったのだ。


携帯をタップし始めてみていると、どんどん言葉が生まれる。そうこれは現在進行中。でも、いくらタップしても言葉が、言葉の中身がスッカラカンでタップする指を何度も止めた。





でもやっと今日。書ける気がする。
そう思って今、noteを書いている。
だけど、誰かの明日に、とか、何か学びを、とか紙に組み立てたものを文章にすることはちょっとやめてみる。これが伝えたい!こう変えたい!じゃないけど、今書きたいことを書く。


だから、この後続いていく文字たちを、
このページを開いてくれたあなたに、
見守ってほしい。






先週から私は、さっきも言ったけど、どん詰まり状態。
生理期間前後ということもあるけど、何より自分のことが嫌い、鏡を見たくない、太った、などなど毎日がBAD DAYという感じ。
まあ、女の身体を持って生まれた人ならわかる感覚かも。期間終了と同時に何だか、気分が良くなったり前向きになったりする。



それだけが原因じゃないことも分かっていた。
1人暮らしになって、社会人になって、フリーになって、目もくれずに前しか見えなかったマラソン中に、周りの景色や給水所や歩いている別の人、自分と一緒に走っている人に意識が行ってしまう。そんな感じ。マラソンあまりしたことないけど多分そんな感じ。





なぜなら自分に向き合うのが怖かったから。
自分を見つめるのが。
私という人間を愛してくれる人たちと毎日を過ごすほど、ひとりになる空虚に耐えられなかった。ひとりになってしまったらからっぽになる自分を見たくなかった。だから友達と過ごしたり、何かしなくちゃいけないことを増やした。


その方が楽だった。幸せだった。楽しかった。
好きなことを語り合えば、好きな人たちと時間を過ごせば、幸せなまま。


前だけ見続けて走ることは自分との戦いだ。
それが趣味でしょ?というか、そうするしか知らなかったからそんな風に生きてきたはずだったけど、案外、自分でもその辛さを理解し、感じていて、解放された時はめちゃくちゃに楽しくてああ私今幸せだああああ!!と思っていたのに、それを続けているといつのまにか、戻れなくなる感覚。





人間やっぱり楽したい。





楽する。




それは、心をすり減らす【表現】だった。





私にとっての本当の表現は、心をすり減らし傷つくことでもある。でもそれ以上の快感や達成感が表現したあとに湧き出てくるし、それをみた人の声が私に届く。





その傷のひとつが踊ることだ。





いつの頃からか、身を削る、カッコつけないで、誰かに認められなくてもいいから、楽しんで踊ることが出来なくなった。



講師をしたり、ナンバーにでたり、レッスンに行ったり、それは全て自分の力、具体的に言えば仕事における自分のツールとするために、はたまた承認欲求を満たすために、踊るようになっていた。



だから、クリエイティブウーマンになる!
と思って、誰かに与えたいと思ったとき、楽しめず
そんな気持ちで踊っていた私は、自分より上手い人や表現力がある人たちを目の前にしたとき、足がすくんで、自分にはそのツールは使えない、と踊らなくなった。



私はこの傷をつくることなく過ごす幸せの甘い蜜を知ってしまった。




いつか、いつかまたちゃんと、楽しんで踊りたい。
と思ってはいた。







矢先なのか、やっとなのか、は分からないけど


昨日の夜、久しぶりに、戻ってきた。






楽しいと思って踊った。


はじめ踊ったときは本当に本当に怖くて次何しようばかり考えていた。
振り付けも準備もせずに踊ること。クラブやライブハウスで身体を揺らすのではなく、表現媒体を踊りにすること。頭ばかり働いて身体は思うように動かなかった。



それを見通されたのか、知っているのか、隠してばかりの私を、撮影していた私の大切な人は、やり直すと言った。



ここで私は自分と向き合う準備を始めたのかもしれない。
いつも私を温かく包み込む人の目が、私に冷たい愛を与えた瞬間。
終始照れ隠しするように振る舞っていた私は、
しっかりと4つ目扉を開くことを決めた。






イヤホンをして。

人生に欠かせない人の音を聴いて。

集中した。


何も考えずに踊った。

立ち上がり回った瞬間。


イヤホンが取れた。


ああ、イヤホンを付けなきゃ。音に合わせなきゃ。


と、4つ目の扉をまた閉じようとした時。







大切な人は、私に続けるように言った。







その言葉に導かれるように、私はまた


4つ目の扉を開いた。









その映像に映る私は、想像なんかに遷る私ではなかった。
そこに残ったのはただ楽しいという気持ちだけ。




思い出せないほど、久しぶりに


消耗した心が楽しいと言った。




私の表現のルーツは踊りだ。
そこに向き合えない、楽しめない私はどんな訴えも、アートも、私自身も空虚になってしまう。
自分がよく分かっていた。









ミハルはどこを目指しているの?


という言葉に答えられなかった。




売れたい、という気持ちが離れ、消えて
クリエイティブウーマンを名乗った私は
その場で与えて返ってくるものにばかり目が眩んでいた。




確かに誰かが目に見えて変わったり感じてくれる姿は嬉しいし美しい。





でもきっと、
私自身が戦い消耗したこと、それを誰かに与えようとして流れた血ならば



甘いキャンディをあげるより
記憶に残るはず。





私はどこを目指しているのか。


その言葉にうまく答えられなる自信はまだない。


でも、

与えたい。の気持ちは消えないから。






与えたい自分にもっと向き合うよ。






カーテンが閉まった薄暗い部屋じゃなくて
ブラックホールに
向き合うよ。





怖がりで弱い私。







大きくなった頭で自分を守らず、広い心で受け入れるよ。








もう少しで今年も半分。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?