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【第二回】チャップリンが生きた道~幼少期から俳優を志したきっかけ

人に大切なのは、自信を持つことだ。
私が孤児院にいたとき、腹をすかせて街をうろついて食いものをあさっていたときでも、自分では世界一の大役者ぐらいのつもりでいた。
つまり勝ち気だったのだ。
こいつをなくしてしまったら、人はうち負かされてしまう。

チャールズ・チャップリン

チャップリンことチャールズ・スペンサー・チャップリンは、1889年4月16日にイギリスにて誕生。父・チャールズ・チャップリン・シニアと母・ハンナ・チャップリンの間に生まれた。チャップリンには4歳上の異父兄・シドニー・チャップリンがいる。

ちょび髭姿のコメディアンとして世界に名を広げるチャップリンは、俳優、監督、脚本、映画プロデューサー、作曲家と、多岐にわたって活躍した。

映画史に残る作品を次々と生み出したチャップリンの幼少期は、貧困や母親の病気など困難が続く生活を送っていた。このような生活のなかでも夢を諦めず、俳優を志したきっかけは母・ハンナの影響が強かった

若き頃のハンナ・チャップリン

母・ハンナ・チャップリンは1885年3月16日にシドニー・チャップリンを出産する。シドニーの父親については明言されておらず、「ホークスという金持ちの出版業者」「トランスヴァールに駆け落ちした」と、これ以上の素性については触れられていない。

チャールズ・チャップリンの兄シドニー・チャップリン

シドニーが生まれてから3ヶ月後にハンナは、チャールズ・チャップリン・シニアと再婚。4年後の1889年に、喜劇王ことチャールズ・スペンサー・チャップリンを出産したが、1891年にはチャールズ・チャップリン・シニアと別居生活を送ることに。

チャップリンを出産する前に、ハンナは「リリー・ハーレー」という芸名でミュージックホールの女優として活躍していた。しかし、ハンナの女優活動は芽が出ず、さらにはチャールズ・チャップリン・シニアの芸人仲間であるレオ・ドライデンと不倫関係になり、1892年8月31日にウィーラー・ドライデンを出産。(ウィーラーは生後6ヶ月でレオに連れ去られ、チャップリンと再会を果たしたのは約30年後だった)。

(左)チャールズ・チャップリン、(右)ウィーラー・ドライデン

チャールズ・チャップリン・シニアからの仕送りが途絶えてしまい、レオ・ドライデンとも不仲になったハンナは、まだ幼いシドニーとチャップリンと共に貧困生活を強いられた。ハンナは裁縫の仕事をするが小銭を稼ぐことしかできず、舞台への復帰を望んでいた。

そんな苦難に満ちた生活のなかでも、ハンナは昔の舞台衣装を着用しシドニーやチャップリンたちに芸を披露していた。そのおかげでチャップリンのユーモアセンスや芸が磨かれたに違いない。

1894年、ある舞台に出演した際に、ハンナは声をつぶしてしまい野次を浴びせられた。

声をつぶしたハンナに代わり、急遽近くにいた当時5歳のチャップリンが代役として舞台に立ち、大喝采を浴びた。これがチャップリンの舞台デビューとなる。

後にチャップリンは舞台に興味を持つようになったのは、ハンナのおかげだったと話している。

母はわたしに舞台に対する興味を植え付けだした。自分には才能があると、わたしが思い込むように仕向けた。

チャールズ・チャップリン

チャップリンの才能にいち早く気づいたハンナは、チャップリンは俳優になるべきと確信して育て上げたのだろう。


1896年2月8日にハンナはクラブで踊った後に精神病を患い、6月には矯正院に収容された。シドニーとチャップリンは孤児院や救貧院を転々とする生活を余儀なくされる。

1898年、チャップリンは父・チャールズ・チャップリン・シニアのつながりで、木靴ダンス「エイト・ランカシア・ラッズ」の座員となり、イギリス中を巡業し、舞台も人気で稼げるようになっていた。この頃には、ハンナの病状も落ち着いていた。

1899年から1900年にかけてイギリス中を巡業したが、さらに上を目指すようにチャップリンは俳優を志すようになった。

俳優としての夢を持ちつつ、生活費を稼ぐために診療所の受付や豪邸のボーイなどの仕事をするようになる。しかし、1903年5月になると、ハンナの病気が再発して精神病院に送られてしまった。(ここからハンナの病状が落ち着くことはなく、長い間療養生活が続く。)

ハンナが精神病院に入った直後、チャップリンは俳優周旋所に名前を登録した。

その後、舞台「ロンドン子ジムのロマンス」のサム役を演じて称賛を受けたが舞台自体は成功せず2週間で打ち切り。14歳の頃にはウィリアム・ジレットによる「シャーロック・ホームズ」でビリー役を演じる。

「シャーロック・ホームズ」
ビリー役を演じたチャップリン

「シャーロック・ホームズ」でのチャップリンは評判を呼び、2年半以上もの間ビリー役を演じた。

ビリー役を演じきったチャップリンは、シドニーの推薦によりカーノー劇団に参加。カーノー劇団はスケッチ・コメディーに特化していた。最初は脇役を与えられていたチャップリンだが、1909年以降は主役を次々と演じるようになる。

この頃には、良い作品を生み出す"完璧主義者"なチャップリンが存在していた。

カーノー劇団の後輩にのちにローレル&ハーディのコンビで活躍したスタン・ローレルがいる。彼によると、カーノー劇団の特徴とは際限なくリハーサルを繰り返して正確なリズムで笑いを生み出すことで、それを完璧にこなしたのがチャップリンだった。このこととは、のちの映画作りにおけるチャップリンの完璧主義 ー一つのシーンを満足いくまで数十回も撮り直し、例えば『街の灯』(1931年)での主人公とヒロインとの出会いのシーンだけで、のべ1年もの時間をかけたーへとつながっていく。

引用:大野裕之「ディズニーとチャップリン~エンタメビジネスを生んだ巨人~」,光文社,2021年,22・23ページ

1910年4月「恐れ知らずのジミー」で主役を演じて成功を収め、同年10月にはアメリカ巡業に参加。批評家からは「これまでに見た中で最高のパントマイム芸人の一人」と言わしめたほど才能を開花していった。最も成功したと言われる「イギリス・ミュージックホールの一夜」によりアメリカで名声を手に入れ、アメリカ巡業は長期間にわたって続いた。

1913年、チャップリンはアメリカ巡業中に映画プロデューサーから才能を認められ、週休$150でキーストン・スタジオへ入社をすることを決意。チャップリンはキーストン社への転身をきっかけに銀幕デビューを果たす



ー続く

次回は、チャップリンの銀幕デビューから俳優・監督としての経歴について語っていく。



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