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その言葉は誰の何を願って発するのか

仕事に疲弊した直後は休みの日に何もやる気が起きず、「せっかく休みを作ったのに何もしてない……」と妙な焦りもあった。仕事で必要な本も、単純に読みたいと思う本も溜まっているのに、なかなか手が伸びないのだ。布団でゴロゴロしたり、近くの公園に散歩に出たりしているうちに、「読むのがしんどいなら動画を見てみよう」と、ご無沙汰していた映画を見始めた。

それはそれで面白かったのだけど、深刻な話テーマはやっぱり気が乗らない。さらに2時間という長さは当時の私にとって、集中するにはしんどかった。結果、あまり考えずに見れるラブコメ的なものやドラマなどを見始めたのだけど、「こんなに面白いものが世にあるの……?」と思うほど、映像作品の素晴らしさに感動している。

今見ているのは2016年にやっていた出版社のマンガ編集部が舞台のドラマ「重版出来!」。動く坂口健太郎を拝みたい……なんていう不純だらけの動機から見始めたのだけど、主人公のガッツさと周りの人が幸せになっていく様子に心を打たれ、3話中3話泣かされている。中でも、作家さんに「マンガのネームを書き直してほしい」と頼みに行くシーンにはグサリと刺さる部分もあった。

作家さんに嫌われても憎まれても言うべきことは言う。それは作家さんに対する読者の信頼を裏切らないため。作家さんが読者にがっかりされないためだ、という。

先日会社の1on1で、社員メンバーと「言うべきことは言えるような信頼関係を作りたい」という話をした。信頼関係を築けないまま思っていることだけぶつけても、相手は聞く耳を持ってくれない。ただ単純に、"自分を"攻撃してくる人間と思われてしまう可能性がある。けれど私が伝えたいのは、相手という人間に対することではなく、「こうしたほうがユーザーのために良いと思う」ということ。「この人は自分を攻撃しているわけでは無い」という信頼関係が無いと、コンテンツが良くなるために言いたいことも間違って伝わってしまうことがあるなと思ったのだ。

自分の性格的にも、強い言葉を発するのが難しい。「嫌われてもいい」なんて思うには相当な覚悟が必要だ。けれど「自分がやるべきことは"嫌われないようにする"ことなのだろうか」と考えると、それは論点をずらしてしまっていると思う。

誰のためにどんな言葉を発するか。自分を守るためではなく、誰かの幸せや喜びのために、発する言葉をもち続けていたい。


去年の毎日note


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