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男女のグラデーション

小学生の頃、ずっと男の子になりたいと思っていた。「将来、子どもを産むのが嫌だ」と言っていた事は覚えているが、それだけが理由だったかはよくわからない。

両親はきっとびっくりしただろう。少し前までは背中半分まで伸びていた髪をバッサリショートに切り、自分を「僕」と名乗り、スカートをひどく嫌がり、兄のおさがり服だけを着はじめたんだから。「女の子は赤色」と暗黙の了解があった学校の絵の具セットも青を選んだし、友だちも圧倒的に男の子が多かった。

男の子の中に混ざって遊ぶのは楽しいし、すごく居心地がよかった。溜まり場になっている仲良しの子の家に行くと、決まって知らない子が2,3人いた。それでもみんなで鬼ごっこするし、交代しながらプレステの格闘ゲームで戦う。今まで会ったことがあるかは問題ではないし、「あの子がいるから遊びたくない」なんて不機嫌になる子もいない。そんな、誰でも受け入れてくれる男の子が好きで、私は"男の子"になった。

そんな私の"男の子"は、小学6年になると徐々に"女の子"が混ざってきた。仲良しの女の子もでき、「僕」の呼称が恥ずかしくなった。しかしどうしても「私」が言えず、仕方なく「うち」と呼ぶことにした。

中学になって強制的にスカートを履き始めてからは、2つ上の男の先輩を好きになったり、同級生の男の子と付き合いたいと思うようになった。友達からスカートと厚底サンダルをもらって(やっぱり恥ずかしくて買いに行けなかったのだ)、私は"女の子"になった。

高校生の頃はスパイダーマンみたいになりたかった。ヒロインでは物足りなくて、大切なもののために戦う彼になりたかった。髪の毛は相変わらず短かったけれど、でも“男の子”になりたいわけじゃなくて、バスケ部に入って髪の毛が邪魔だと思ったからだ。一方、サルみたいな外見とは裏腹に、セクシーな女性に憧れてもいた。「豆乳を飲むと胸が大きくなる」なんて噂を聞きつけ、部活後に毎日飲んでいたりもした。そんな私は“男の子”だったのだろうか、”女の子”だったのだろうか。

具体的な文章は思いだせないが、東野圭吾の「片思い」の中で“男女はくっきりわかれているものではなくて、グラデーションのような、濃度のようなもの”といった文章がある。私はその考え方が、すごく好きだ。

ある時ある場面において、私の考えはすごく男性的に寄ったり、女性的になったりする。決してきっちりと分けられるものではなくて、その時の環境や、心の動きによっても今までとは違った方向に傾くことだってあるだろう。

これからも、その時その時で自分が一番素敵だな、と思う考えの方へ、濃度を強くしていきたい。自分の気持ちに身を任せ、揺れを楽しむ人を想像すると、とても美しいな、と思う。


大学に入ってからは、残念なことに揺れが少ない。10年経った今でも私は、真鍋かをりのようにグラマラスで賢く、時にはYUKIちゃんのようにエロ可愛くありたいと思い続けている。時々、どちらにもつかず不安定に揺れてたあの頃を思いだしながら。

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大テーマ#男女
テーマ#素敵なところ

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