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火葬場でのシャッター音が何気ない日常

ガンジス川の支流があるパシュパティナートは、川岸がヒンドゥー教徒の火葬場になっている。葬儀場?と思うけれど、ここは世界遺産に認定されたヒンドゥー教寺院。各国から来る観光客で賑わいを見せている。

午前9時前に到着した私は、ドブのような川で子どもが遊んでいるのを横目に裏道を1,2時間程度散歩し、川岸へ戻ってきた。

行きにはまばらだった人も戻ってくる頃には倍になり、特に密集している川岸の一部を橋から眺めると、人の間からふたつの足が見えた。

死体だ。
密集しているのは親族なのだろう、みんなでていねいにその足を洗っている。ふくらはぎから上は黄色の花で覆われているし、人が目隠しになっていて様子は見えない。しばらくして5,6人の男性が死体を持ち上げ、身体を覆っていたのと同じお花に囲まれたベッドへ死体を運んだ。

死体が寝かされると急に体が軽くなった。死体を見つけた時から、どうやら私は全身が緊張状態だったようだ。身体が軽くなると同時に、今までは耳に入らなかった声が聞こえてきた。暗くて、息が詰まってしまいそうな声。声の主は、先ほど運ばれたベッド近くの休憩所にいる女性だった。周りの人はお構いなしに、大声をあげてただひたすらに泣き叫んでいる。

「私はここで、この様子を見ていても良いのだろうか」
女性の泣き声が私の心をめがけて突き刺さってくる。きっと、大切な人だったのだろう。今が、お別れの時。一緒に過ごした日々に対してありがとうと、さよならを言う時だ。二人の大切な場面を、私は今ここで、単なる興味で見ている。


もし、私の家族の葬儀に見ず知らずの外国人が来て、写真を撮ったりなんてしたら私は嫌だ。家族は見せ物じゃない。そう思うとだんだん見ていられなくなり、散歩をしてきた道へそっと戻った。

対岸では、お供え用のフルーツやお線香を売る人、観光客や地元の人が何事もなく過ごしている。観光客は火葬の様子を写真に収め、通りすがりの人は少し足を止め、また歩き出す。

どうしてこんな奇妙な事が今まで普通に起こっているのか。誰かこの状況に不満の声はあげないのか。なぜ、当たり前のように出来事が流れているのか。頭の中でもやもや考えているうちに、もしかしてこれは、彼らにとって何気ない「日常」のヒトコマにすぎないのかもしれないと思い始めた。

私が嫌だと感じるのは「もしここが日本だったら」の話であって、ネパールの、とりわけヒンドゥー教の人は「火葬場に知らない人がいる」ことが当たり前なのかもしれない。だからこそ、ここは何年経っても火葬場だし、外国人がいることに怒る人はいないし、「火葬場を案内するよ」なんてガイドも現れる。死別の時は身内で静かに、なんていうのは日本に閉じた常識だったのかもしれない。

私は女性を見た場所までもう一度戻った。死体は淡々と焼かれ、辺りに灰色の煙が立ち込める。階段の上から観光客が、その様子にシャッターを押している。

これがパシュパティナートの「当たり前の風景」
私も、カメラを構えた。日本の常識が抜けず、少し遠慮しがちに。

”自分がされて嫌なことは、人にしてはいけない”
小さい頃先生から教わったことだ。しかし、海を越えると自分がされて嫌なことも常識になる。何をすべきで、何をしてはいけないのか。


川岸にまた、ふたつの足が見えた。
周りにはやはり人が集まっている。丁寧に足を洗っている。

お花のベッドが用意された。今日は何人、ここで焼かれ、何人の外国人が写真に収めるのだろう。

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