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選択は“自分に合っているか”を考える

2019年1月1日。うっすらと明るくなった空を、車の助手席で眺めた。初日の出を見に近くの橋に向かう、車の中だ。

例年はまだ暗い、車の窓が凍って見えなくなるうちから出発するのだけど、今年はどうしても起きられず、外に出る頃には空がぼんやり明るくなっていた。昨日の夜は紅白に夢中で、12時過ぎてから2018年を振り返ったもんなぁ。

私は毎年大晦日に、その年の振り返りと翌年の目標を決めている。友人と実家で年越しそばを食べ、紅白がクライマックスに差し掛かるところで、各々振り返りを始めるのが恒例だ。今年も同じように、当初に立てた目標と今の状況を照らし合わせた。総じて目標に近い結果を残せている。よしよし、1年やりきった。

そんな風に行っている振り返り。社会人になってから初めて、もう10年近く経っているのだけれど、ここ数年は「毎年目標を立てるで、本当にいいのかな」とも考えていた。

それは、“誰でもそうしている”と思っていたこの行為が、人によって違うことに気づいたからだ。

「年始に立てても目標は途中で変わるから」とか、「あまり意気込んでもすぐに挫折してしまうから」とか、さまざまな意見があり、年始への準備が人それぞれ異なることを(今更ながら改めて)気づいたのだった。そうすると、自分のやっていることが"正しい"のかどうか、不安になる。

心の隅に小さなモヤモヤを抱えながら2018年を振り返り、2019年の目標に差し掛かったのだが、頭が働かない。眠気が勝ってしまい昨日は仮眠を優先したのだった。

車は目的地へ到着した。初日の出の予報時刻まであと10分。けれど今日は雲が薄く伸びていたので、太陽が出るまでもう少しかかりそうだ。「暖かい飲み物でも買っておけばよかった」と、全身を揺らしながら待つ。

20分くらいしただろうか、まぶしい光が目に届いてきた。目がくらんで、見えなくなってしまうような、強い光。2019年初日の出だ。

私が日々取っている行動は、“正しい”か”正しくない”かでは語れない。自分が”やりたいこと”であり、それをするのが自分にとって良いと思うから。ただそれだけの理由で、十分だ。

初日の出は、見に行くことが“正しい”から行くわけではない。“見に行きたい”から行っていて、それでいい。


帰ってきて再び仮眠を取った後、今年も同様に目標を立てた。2017、2018年で出来たことがベースになり、さらに一歩、新しいことを追加した。一つずつ出来ることが増えていて、ちょっと自信になった。

放っておくと「これでいいのかな」と不安になってしまう性格の人にとっては、目標を作った方が迷わない。不安材料を少しでも減らすため、何に向かって、どんなことを、どんなふうにするかを最初に決めておく。あとは、目標に向かっていくだけ。これでずいぶん迷いが減る。

目標を立てて、それに従って動いて、振り返って、また目標設定する。目標を立てることが“正しい”かどうかはわからない。けれど、迷わず生きるために必要な、“私に合っている”戦略であることがわかった。


今年の目標も決まったので、あとは具体的に動くだけです。今年もよろしくお願いします。




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