書くことは機織りに似ている
自分の仕事について、短い時間で人に説明をする必要があるとき、便宜上「フリーライターなんです」ということが多い。
でも、なんというかそのカタカナ言葉が持つ語感は、日々仕事をするときの私自身の体感から、微妙に離れている。
もうひとこと、説明を付け加える余裕があるときは、「つまり、機織りみたいな仕事なんです」と言ったりする。
さまざまな色の糸を、機織り機にセットして、縦糸の間に横糸をくぐらせながらカタカタと織っていく、何度か工房で体験したことのあるあの感じに、働く私の感覚は大変よく似ているのだ。
機織りであるところの私は日々、近い場所や遠い場所へ出かけ、いろいろな人の話を聞いて、さまざまな糸を集めてくる。
細い糸、太い糸。ごわごわした糸、すべすべした糸。感触も太さも色も、毎回違う。
集めてきた糸を手のひらに載せたり、光に透かしたりしているうちに、その糸がどんな模様の織物になりたがっているか、何となく分かるような気がしてくる。
織れるな。と思ったら機械に糸をセットして、あとはもくもくと、できるだけ余計なことを考えずに、繊維たちがなりたがっている姿をより完全に近い形で実現できるように手助けする。
織物(つまり文章)はいつの間にか出来上がり、旅立っていく。
織った言葉が誰かの暮らしを豊かにしたり、心をあたためたりしたらとても嬉しい。
嬉しいけれど、人に喜んでもらうことが第一目的というわけでもない。
子どものころからずっと、あちこちで糸を集めては文章にするのが遊びで、趣味で、手なぐさみだった。
大人になってもコツコツと続けていたら、いつの間にかそれが仕事になっていた。
とても幸せなことだと思う。
たぶん、書くことが仕事じゃなくなっても、たとえ世界から本が消えてしまっても、私はずっと世界の片隅で、機織りするみたいに言葉を並べたり崩したりして遊んでいるんだろうという気がする。
フリーライターです、というと「ご専門は何ですか?」と聞いていただくことが多くて、もちろんそれなりにこれまで引き受けることが多かった分野というものもあるのだが、私の場合、特定の分野について何かのメッセージを伝えるために文章を書くというよりも、糸たちが語りたがっているストーリーを解きほぐし、言葉たちが並びたがっている順番に並び替えてやることそのものが、ライフワークなのだと思う。
そういう自分が「ライター」を名乗るのはおこがましいのではないかと感じることもあったのだが、このように誰もが自分の主義主張を世界に向かって発信することができる時代、私みたいな変な人がひとりくらいいても、誰かの何かの役に立つことがあるかもしれない、と最近は考えている。
そのようなわけで私の名刺には「言編み人」という肩書が印刷されている。
(「言織り人」でも良かったんですが、まあ何というか語呂の問題ですね)
もつれた糸を見ると、中にどんな宝物があるんだろうってちょっとワクワクします。
自分の糸がどんな織物になるのか見てみたいと気が向いたら、お気軽に話しかけてください。
読んでいただきありがとうございます! ほっとひと息つけるお茶のような文章を目指しています。 よかったら、またお越しくださいね。