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呼吸の仕方を、思い出すように

たとえば、右足と左足を交互に出して歩くとか。

息を吸って、吐くとか。

ふだん、考えるまでもなく当たり前にやっている動作のやり方が、ふと分からないような気がすること、ないですか?

私はときどきあります。

ちょうど、今日がそんな日でした。

手足の動き、何だかぎくしゃくしているなあと思いながら、着物に着替えて、趣味で続けているお茶の教室へ。

お茶室に入って、いつも通り道具を並べようとするのですが、体が覚えているはずの動きを思考がブロックしてしまって、手が動かない。

次は何をするんだっけ?

右手?左手?

どうしよう、何も思い出せない。

焦って頭が真っ白になり、空回りする私に、先生が助け舟を出してくれます。

はい。そこで袱紗。

次は柄杓。正面で構えて。

冷や汗をかきながら何とかお点前を終えて、私は自分に少しがっかりしていました。

もう1年以上続けているのに、何にも覚えられない自分。

…というより、体はちゃんと覚えているはずなのに、コツコツ続けてきたお稽古が、思考の乱れに簡単に負けてしまうことに。

 ♪

たまたまお茶の生徒さんが少ない時間帯だったので、私がいただくお薄は、先生が点ててくださることになりました。

先生のお点前は、大袈裟なことや不自然なこと、余計な動きがひとつもありません。

手とお道具がつながって、ひとりでにお茶が出来上がってゆくみたい。

先生が袱紗を捌いて鳴らしたとき、あんまりその音がやさしいので、私は何だか鼻の奥がつんとして、いつもみたいに恋するような気持ちで先生の動きを夢中で見ていました。

そして、ふいに「ああ、そうだった」と思いました。

茶道は、「何もできない無力な自分」でここに在ることそのものが楽しいんだということを、私はまたすっかり忘れていた。

流れるような素晴らしいお点前ができるようになる「いつか」のために今日があるんじゃなく。

間違いだらけで全然かっこよくない、でもそんな自分を鼻歌をうたうような気楽さで見つめている時間の中に、お茶のよろこびがある。(…と、私は個人的に思っています)

ひとり静かに「はっ!」としている私に、先生がにこにこ笑いながら手を止めて、「今、なんてやわらかい袱紗だろうと思ったでしょう」と仰る。

先生にはたぶん、人の心が読めるのです。

 ♪

「勉強させていただきました」と両手をついて帰ろうとしたら、「もしお時間があればもう少しいてくださる?」と先生。

新しい生徒さんが何人かいらっしゃるので、もう一度お点前をしてほしいとのこと。

ふたつ返事でお点前をさせていただくことにして、お道具の運びからもう一度、抹茶を点てていきます。

先生の動作の余韻に自分の動きを重ねるつもりで、おいしいお茶を飲んでいただくことに気持ちを集中していくと、頭と体のバランスを崩していたこわばりがするするとほどけて、頭で考えるより先に、手がす…と出るようになりました。

私の動きをじっと見ていた先生が、にっこり笑って最後に一言。

「落ち着いた、いいお点前でしたね」

 ♪

先生のお茶室は本当に不思議な空間で、心にどんな荷物を抱えて入っても、出るときにはすっかり荷物を降ろし、すっからかんに空っぽの、身軽で自由な自分にリセットされているのです。

先生の袱紗捌きを思い描きながら、鼻歌まじりで家路につきます。

次のお稽古ではどんな冒険が待っているのだろう、とわくわくしながら。

読んでいただきありがとうございます! ほっとひと息つけるお茶のような文章を目指しています。 よかったら、またお越しくださいね。