幸運てスライムなんじゃないか
苦しいときというのは、まわりはみんな輝いて、自分のところだけ運がさけてとおっていないような気がする。
なんで自分だけこんな目に。なんであの人ばかりが得する?
自分もしょっちゅうそう感じるのでえらそうなことは言えない。でも、自分が得られなかった幸運を他の人が手にしたのを見てもフラットな心でいられるときに感じるのは、あの幸運はめぐりめぐって私につながっている、私にも違う形でめぐってくる、ということ。
自分だけ運が悪い、あの人だけずるい、というときは、分離を感じているとき。
循環から分離している。自分が真我と分離している。だから真我でひとつである他人とも分離している。
すべてひとつだとするなら、運もひとつなはず。ほんとうはスライムのように切れ目のないもので、人の間を循環したり満たしたりしているんじゃないか?だから、あの人のところにいった運はひとつのスライムの先端で、自分のところにもその先端はつながってはいる。他人の幸運を目にしたのなら、その幸運はつながったスライム幸運なんじゃないか?
これをひとつとするか自分とは切りはなすかは、自分次第なんじゃないか?
日本一の投資家だった武田和平さんのエピソードに、こんなのがある。注文した料理が売り切れだった(たしかおにぎり?)。でもそこでは丼物も出しているのでご飯がないわけではない。一緒にいた人はそのごはんで作ればいいじゃないかと思った。でも和平さんは、売り切れでよかったじゃないか、それだけこの店が繁盛しているということ、と笑ったという。
注文したものがない、という不運を選ばず、売り切れるほど繁盛したという幸運を自分のものとして喜ぶ。
和平さんにとって、幸運というものに自分のものも他人のものも区別がないのだなと思った。
いつもこの気持ちでいよう、とするのは、またできない時に自分を責めてしまったりして苦しい。だから、そう思えるときにだけ、積極的にそちらを選んで、自分の幸運のテリトリーを広げてみる。
自分だけに運がないと、部屋のすみで膝を抱えて拗ねている気分の日が、少なくなるんじゃないかな。
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