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好きなことを思い切りやりたいのに止められてしまう時

拡大と縮小、この二つは交互にやってくる。やってくるから仕方がない。縮小を恐れるがあまり、拡大を抑えたり十分に楽しめないのはもったいない。まあ、拡大が必ずしも楽しいかどうかはさておき。

今の私たち、右肩上がりの成長がよい、と思わされてきた。戦後からの復興と高度成長、あるいはバブル後、あるいはリーマンショック後。なぜなら、右肩上がりなうちは不安を感じずにすむから。

減少する、縮小する、下り坂になる、というのは将来への不安と結びつく。

縮小が怖くて、不安を感じたくなくて、拡大を抑え平板に生きたいと考える人も少なくない。このままでいい。変化しなくていいと。拡大だけがいいわけでもない。ただ自分のそうした意図にかかわらず変化は拡大も縮小もどちらも来てしまう。

避けていても訪れてしまう。避けようと思っても人が人生のあらゆる局面をコントロールして変化を起こさせないようにするなんていうのは土台無理だし。

人生にはいろいろな面がある。たとえば経済的な拡大と縮小が怖いからと拡大をおさえたつもりで、実はそのとき来ていた拡大の波は人間関係かもしれない。経済的な変化を抑えたつもりで、ノーマークの人間関係が縮小局面にはいるときには心の準備ができていないため、やっぱり痛みを味わうことになる。

わたしもそんな拡大と縮小の波に振り回されたことがある。ある年、ホロスコープ的に私の生産活動、お金の部屋に拡大の星木星が来て経済的に拡大するはずだった。解説を見ると「実入りがいい年」「経済的に恵まれる年」と書いてあるものが多かった。

でも実際にその年になると、収入は別に変わらず。むしろ出ていくものが多くなった。なにに出ていったかというと、趣味のダンス。

この木星がお金の部屋にいた1年間に、お金と時間とエネルギーをたががはずれたかのようにーーいや実際外れてたけれどーーダンスにつぎ込んだ。経済的に拡大するはずだから、とどこかで保証のない運に当て込んでた愚かさもある。

おかげでダンスのスキルやメンタルが成長し、心も満たされ、ダンスの器が大きくなった。

このとき拡大したのはお金ではなくダンスだったということ。あるいは支出の側のお金の器。

とはいえそんな状態がいつまでも続くはずはなく。

実入りが変わらないのにダンスにお金と時間を費やせば、経済的には苦しくなるのは当然。ここで、今度は縮小期に入らざるを得なくなる。

縮小そのものよりも、その前の抵抗期が長く苦しかった。右肩上がりの幸せを手放さないといけない。でも手放したくないから、ダンスの拡大を続けることがいかに重要かを探しスピリチュアルやメンタルの方向から無理くりの意味付けをしたりした。執着だった。

ここで発奮して、キープするために稼ぐぞ!とはならなかった。考えはした。ダンスのために稼ぐと思えばがんばれるはず、と。でも、このとき「稼ぐ」は私の欲ではなかった。欲はダンスしたい、に集中していた。

結局、終わるものは終わる。なるようにしかならない。限界が来たのだ。

この拡大したい、でも状況がそれを許さない、という乖離が最大になったとき、「踊りたくない」と思うようになった。拡大に消耗し、縮小の不安に消耗し、そして抵抗に消耗したのだ。

縮小に向かう時がきたため、拡大を抑えるストッパーが働いたのだ。このストッパーと、やる気を失う、あるいは対象を嫌いになる、というのはセットになっているんだと思う。燃え尽き症候群ていうのは、こういうものかもしれない。

とはいえ実は心のどこかで「踊りたくない」がニセモノの感情だというのは、気づいていた。だって、踊る元気がないことが苦しかったから。本当に踊りたくなければ無関心になるはず。縮小して踊れなくなる痛みを感じたくないために、予防として先に踊りたくないという気持ちを思考が作りだしていた。それもわかっていた。執着だと気が付いたから、痛いけれど執着を手放すときだと肚をくくった。

とにかくストッパーがかかって、私は一度止まった。止められた。悲しかった。悲しくて仕方なかった。

ところがいったん止まってしまったら、意外なことにほっとした。考え、選択する責任から解放され、力が抜けたみたい。

もう拡大するためにどうしたらいいか、を考えなくていい。すると縮小の不安もなくなった。ゆっくりのんびり、追い立てられもせず、周りで精力的にダンスしている仲間をぼんやりと眺め、でも不思議と焦りもなく。

しーんとした内面を感じ、自分と対話し、うちなる知恵の声を聴き、宇宙がなげてくるメッセージを素直にうけとる時間に浸った。拡大に傷つき、縮小に傷つき、執着を手放すことにつかれた心が癒されていったんだろう。

ダンスが好きだ、という気持ちがゆっくりと息を吹き返しはじめた。たぶん、拡大へのプレッシャーと縮小の不安がなくなったことで、ストッパーが緩んだのかも。

縮小の嵐で最小限にそぎ落とされた後に自分のダンスとして何が残ったのかが見えてきた。

拡大していなくても、縮小の恐怖があっても、その上下する水面のもっと下で変わらずあるもの。残っていたのはそれだった。それはダンスに限らず、なぜ生きるかという理由そのものだった。それと一致していれば、なにをするかは関係ない。なんであろうとやればやるほど、生まれてきた目的が果たされる。本当の自分につながる。なにかを表現するのではなく、そのなにかそのものとして「ある」ことになる。

ダンスが止まったことで、海面が静まり、底にあるものが見えたのだ。

ゼロになったところで、この世を生きるにあたって絶対に必要なものとして再びダンスを選んだ。依存でもなく執着でもなく、確信をもって。

もはやダンスは趣味の域をこえ、生きる意味であり、身体と心と魂の波動を整えるための不可欠な活動だ。私が私としての本分を発揮するための重要な土台なのだ。

これに気づけたのは止まったから。息を吐きだして過呼吸が正常に戻ったよう。拡大のおかげで満たされ、ダンスという器が大きくなった。

そして縮小のおかげで精度高く必要なものと不要なものを分け、不要なものはそぎ落とし、必要なものも止まる前には思いつかなかった方法で手に入れるやり方を見つけることができた。

純度が高まったのだ。執着や依存を抜けて、強くなった。

拡大しなければ、止まることはなかった。縮小への不安がなければ止まることはなかった。止まることがなければ、今の純度の高いダンスとの関係は生まれなかった。

拡大も縮小もやりきるしかないのだ。避けても結局訪れる。この繰り返しで器が大きくなっていくし、自分を生きる純度が高くなっていく。拡大と縮小の波をコントロールすることも準備しておくこともできない。経験するために用意されているものだから。

このダンスの拡大と縮小が生産の部屋に木星がいたときに起きたということは、いずれ大きな意味で生産の拡大にかかわっていたことが分かる日が来るのかもしれない。

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