見出し画像

complement - 私が絵を描く動機について

私の絵は、漫画に出てくるような、キラキラした瞳の少女がにっこりと微笑んでいるものばかりです。
現実からはとおくかけ離れた世界の、夢のような絵...そういった印象を受けている方も、いらっしゃると思います。
ですが私は、少女漫画のことが、特別に好きというわけではありません。
懐かしい!ともよく言われますが、そもそも平成生まれの私にとって、キラキラおめめの絵柄は、懐かしくもなんともないのです。

私が描きたいのは、私の身のまわりの世界や、そこに存在するひと、つまり、あなた。
私はあなたを私のやり方で観察し、見えたままに、誠実に、描いています。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私は、幼い頃から、いわゆる”写実的”と呼ばれる絵画や、ぱっと見て「上手い!」と感じられる絵画にとても惹かれていました。カラヴァッジォやリュベンス、フェルメールのファンで、画集を繰り返し見てはあこがれました。
理由は、”リアルだから”。見たままの現実をそのまま、いや、より精緻に描写できる技術。それを手に入れられれば、生きていくためのヒントも得られるような気がしていました。(そんなにも貪欲にヒントを欲していた理由は、読みすすめるとわかります)

高校で美術科に進み、油絵を描きはじめてからも、作品はくすんでいて落ち着いた、グレーがかったトーンのものばかりでした。とくに受験対策では、静物画はシャルダンのように、埃っぽく、あるいは艶やかに描くように意識していました。それが”写実的”だと思っていたから、愚直に信じ、描き続けました。

その姿勢は受験絵画の傾向にぴったりはまり、そのまま絵について深く考えることなく現役で美大に入れてしまい、大学生活が始まりました。
モデルや静物を、描く。描く。描く。肌の色味や質感を追うのはとても楽しくて、充実していました。
でも、自由課題が増えるにしたがって、モチーフ選びに苦戦するようになっていきました。

そんな大学2年生のとき、ある教授に言われました。
「君にとってのリアルって、なに?」
えっ。
見えているままに描いて、それを鑑賞者と共有できれば、自分は写実的な絵を描いている、世界を正しく捉えていると言える、そう思っていた。
でも、よく考えてみると、私、人物画を描くときくらいしかこんなにまじまじと人間を観察したりしない。静物画といえば果物だと思ってモチーフにしてきたから、皮の質感は上手に描けるけど、そもそも、葡萄や洋梨って、いままで数えるほどしか食べたことないや..。
私にとってのリアルな見え方、リアルなモチーフって何だろう?
それから、自問自答を繰り返していきました。
なぜ、私は絵を描いているのだろう?
そうするとどうやら、幼い頃からの体験、あまりにも当たり前すぎて無意識のうちにやっていたことが、絵を描く動機になっていることに気づきました。

幼い頃から、私は強度の近視でした。小学一年生の時に眼鏡を作ってもらいましたが、田舎の小学校だったので、眼鏡をかけていると珍しがられ、からかわれてしまいます。それがとても嫌で、殆どの時間を裸眼で過ごしていました。
裸眼で過ごすということは、顔や表情が見えないまま、人とコミュニケーションを取らなければならないということ。
私はそのためのヒントを、少女漫画から得ていました。
母の本棚には、きれいで、うつくしい絵の本がたくさん詰まっていて、それを夢中で見ていました。
手元の紙にはピントが合うから、容易に感情を読み取ることができて、漫画に夢中でした。
その多くは、大島弓子作品です。
子どもには難しい話も多かったけれど、"こういう感情のときに、人はこういう顔をする"ということを学びました。
ぼんやりとしか見えない実際の人間の顔よりも、はっきりと見える漫画の人間の顔の方が、わたしにとってはずっと"リアル"なものだったのです。
ぼんやりと見える背丈や服装(色の情報)に、声、それから少女漫画の顔(表情は、動きや声色によって判断)。
これらを脳内で重ねて、コミュニケーションを取っていました。
当時〜12歳ごろまでは、自分自身の表情の作り方も、漫画を真似たものだったから、側から見たら、へんだったかもしれない。漫画のようににっこりと口角を上げて笑えているつもりだったし、あははと笑うと口が逆三角のかたちになっていると思っていました。「目が合っているようで合っていない気がする」と友だちに言われたことがありましたが、"目があるべき場所"を見ていたのだから、そう思うのは当たり前でしょう。
もちろん、自分に向けられた悪意にも鈍感でした。悪口を言われた記憶もないし、いじめられた記憶もないけれど、少女漫画のような喋りかたをしていたし、もしかしたら陰口とか、言われていたのかも?でも、まったく記憶にないのです。誰かが遠くでこっちを見ていても、わからないから。

12歳、中学生になるときに、コンタクトレンズを買ってもらいました。
そのときの衝撃ったら、ありませんでした。
壁が、遠い。下を見ると、足が、床が遠い。
人の顔って、手って肘って膝って、ぼこぼこしている。うそ、顔にも毛が生えてるのおおお。

絵を学ぶために遠くの市の中学校に入学し、友人や生活スタイルが一変したのもあって、私の記憶は、中学入学以前と、それ以降でぱっきりと分断されています。
コンタクトレンズをしてからは、ものの見え方が、まったく変わりました。
漫画とは違う、実在する人間が、どうやって表情を変えているのか。感情が変わるごとにパッ、パッと変わるわけじゃなくて、なめらか。感情の移り変わりも、とてもなめらか。
漫画の人間が怒っていたり泣いていたりするのはとてもきれいだけれど、実在する人間の感情の発露のしかたは、ちょっとグロテスク。
美人と呼ばれる顔のパーツの具合について、少しずつ分かってきたり。(これについては、いまでも自信はない)

12歳から数えて、ちょうど15年。現実を見られる視界を手に入れて、15年経ちました。
人間や動物、ものの質感については確実に理解が進んでいますが、コンタクトレンズを取ると、いつでも幼少期の自分に戻ります。
ものとの距離感がなく、色が混ざり合った世界。人間の顔はうつくしく、感情は清らか。優しい父と母がそばにいて、ちいさくてやわらかい弟がいて、自分は愛されている。
それはとてもしあわせな記憶です。
あの頃は、自分にとって安心できる、うつくしくてつよくて大きなものに守られている実感がありました。
私は絵を描くとき、そんなふうに必死で世界を探っていた、子どもの頃の自分に戻るのです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私は、少女漫画に出てくるような女の子の絵を描いています。
しかし、私が絵を描くのは、かわいい女の子を描くためではありません。
ただ、幼い頃の視界や感覚を、再現しようと試みているのです。
幼い頃に与えてもらった "世界を探る眼鏡" が、少女漫画だった、ただそれだけ。
画面に立ち現れてくるのは、あの頃見えていた世界、見ようとしていた世界です。
うつくしく優しいものだけを見て、この先ずっと幸せでいられると信じていたあの頃の自分、そして、これからもそんなふうに生きていきたいと願う自分。
それは祈りにも似た感覚です。
私が描く人物像は、あの頃感じていた空気のようであってほしい。だから、私が描く人物像はうつくしくて、つよくて、大きい。そして、優しくてしずかだ。
それが画面に立ち現れたとき私は、自分の根底にあたたかくながれている空気をじょうずに吸うことができるのです。

今回の個展では、私の絵の作り方をわかりやすく伝えるため、見る対象を実在の人間から陶器の人形に置き換えました。
この大量生産されたちいさな人形のぼやっとした形や顔のパーツの印象が、裸眼で過ごしていた幼少期の見え方に似ています。
15点のドローイングにはじまる一連の制作は、自分の意識下にあらわれた図像を可視化し、鑑賞者へ提示するという試みです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?