「不運な奴ら」になった私は幸運だった

「これから俺のクラスになった不運な奴らを発表するぜ!」
この一言が先生との出会いだった。

先生がうちの高校に来たのは私達が2年生の時だが、当時は先生の授業を受けているとか、先生が顧問の部活に入っている友達から伝え聞くぐらいで接点はなかった。どんな人か見当すらつかないまま3年生に上がろうとしていた時、私は先生の言う「不運な奴ら」の一員となった。

「不運な奴」として迎えた初日は言うほど悪くなかった。お堅そうな第一印象に反して意外と冗談の通じる人だ。最初からあんなこと言うぐらいだし。生徒のことを下の名前で呼ぶタイプの担任にあまりいい思い出がなかったのだが、先生にそんな風に呼ばれるのは不思議と嫌な感じには聞こえなかった。もっとも、高校でお世話になった他の先生にも下の名前で呼ばれるのは割と嬉しかったが。
先生の担当科目は英語。私達の所属する学科では特に重要視される科目だ。それ故に先生の授業は歴代トップクラスで大変だったが、受験対策としては充分すぎたし、卒業して英語から離れてしまっても大事にしたいことを教えてくれた。

例えば、授業でよく見られた光景。
その日出てきた単語の類義語を当てさせることが多かったが、私達が発した単語が間違いだった時、先生は決まってこう言う。

「それでも推測するのはいいことだよ」

外国語を学ぶ中で知らない単語に出会った時、自分の持てる知識を総動員して大体こういう意味なんじゃないかということをこのトレーニング?を通じて自然に考えられるようになったのは大きなアドバンテージだ。でもそれ以上に、ちょっとしたクイズのようなこの時間は正解か不正解しかない世界で戦わなければならない受験の世界にいた私を、ひいては私の心のどこかに眠っていた「正しい外国語を喋らなきゃ」と思ってしまう嫌な日本人らしさをほんの少しだけ解放してくれる気がした。

そんな先生にシゴき抜かれたおかげか、第一志望ではないが本当に興味のある分野が学べる大学の補欠合格を勝ち取った。メールで報告したらすぐに電話が来たので笑ってしまったが、翌日に別の学校の試験を控えていた私にとってはそれが緊張を解いてくれた。なおその大学には見事落ちた。

卒業してから先生と連絡を取ったのは大学へどうしても出さなければいけない書類の発行をお願いした時だけだと思う。それから授業が忙しくなって次第に先生のことも先生から教わったことも考えなくなった。学校で英語を一ミリもやらなくやった矢先、高校のLINEグループが動いた。

なんでも、先生が遠い遠い場所へ行ってしまったんだとか。

嘘だろ、悪い冗談であってくれ。そう思いたかったがどうやら嘘ではないらしい。人というか少なくとも自分は、あまりにも悲しくてショックなことがあると涙すら出ないことを学んでしまった。
数日後、すごい数の人達が先生に別れを告げに集まった。多分先生が最後に持ったクラスの「不運な奴ら」はほとんど来ていたし、長いキャリアの中で育て上げて来た生徒達、そして同僚の先生方。あまりに人が多いのでお焼香等が一通り終わったらすぐ帰された。去り際に見かけた行列は先生の人徳が成せるものとしか思えなかった。一時期不仲説が囁かれていた先生が受付をやっていた辺り、この人達は何だかんだ信頼し合っていたのかなって少し安心した。

先生を送り出した3ヶ月後。
私は観光地以外ではほとんど英語が通じない国にいた。所謂留学って奴だ。英語を一度も使わずに帰国するんだろうな、ということを考えることすらしない日々を過ごしていた時の話だ。

学校周辺に良さそうなお店があると知って休日に足を運んでみたのだが、そこのオーナーがほとんど英語しか話せなかったのだ。この場所でよくやって来たなという感想は置いといて相手の話は何となく分かるが言いたいことをうまく伝えられない私を助けてくれた英語ネイティブの方がいた。その流れでその方と色々話す中でおすすめの観光地を教えてもらったのだが、何故かこの時はやたら流暢な英語を話せたのだ。きっと先生が味方をしてくれたのかも。遠い国で英語じゃない言葉を学んでいる私が思いがけず英語が必要な場面に遭遇しているのを見て「他の言語に魂売ってんじゃねえよ、しょうがない奴だなぁ」とでも思ってくれたんだとしたら嬉しい。いや、そう思うことにしている。この日の帰り道は真っ先に先生のことが思い浮かんだから。

それはきっと、私が一年かけて「幸運な奴」になれた証。

#忘れられない先生

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