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「話してもわかり合えない人」それはお互い様なんじゃない?という話

世の中には、いくら話してもわかり合えない人がいる。そんなとき、とる手段は2つだ。距離を取るか、とことん視座と焦点が合うまで話し込むか。けれど、たいていは距離を取ることを選択する。

その理由は人それぞれだろう。時間は有限だ。だから、その大切な時間を、わざわざ費やしてまで話し合いたくない。これもわかる。
そこまでの必要性を相手に感じていないなら、自分の時間を優先すればいい。無理してまでつき合う必要などないのだから。私もそう思う。

けれど、時には自分にはない考え方や感性に触れるのも自己成長には必要だと思うのだ。ところが最近は、膝を突き合わせてとことん話し合うようなことが、一律に「無駄なこと」と括られてしまっているように感じる。

人それぞれ捉え方は違うだろうが、全てが無駄と括ってしまうのは、違う世界を見る機会を自ら放棄しているようにも思えるのだ。

なぜそんなことを思うのかといえば、以前から薄っすらと“無駄と括られていること”に違和感を持っていたのと、先日Twitterで面白いコメントをもらったからだ。

批判がしたいのか? 意見を伝えたいのか?

SNSでは──特にtwitterは『炎上』なるものが非常にしやすいツールだと聞く。実際に、私のタイムラインにもちょくちょく「これが炎上か」と思われるものが登場する。その原因はさまざまだけれど、元ツイートに配慮が足りないものも見受けられるし、アンチと呼ばれる人たちが油を注いで始まっているものもある。

先日、私のツイートにも批判をしたいのか何なのかよくわからないコメントが引用RTで投稿された。先方はすでにそのツイートを削除されたみたいだが、要約すると

私が最大手WEBでの掲載実績がないのにもかかわらず、主催交流会で5,000円近くの会費を徴収するのは、自分を過信していないか?

というものだった。それに関して私は、こう答えた。(原文は元ツイが削除されて拾えなかったので要約しています)

当時は身近にライターの知り合いもおらず、繋がりたいという目的で主催した。誰かがやってくれるのを待っていたら、いつになるかわからない。それなら自分がやればいいと思った。

これについて、相手に「(私と同じ立場だとしたら)あなたならどうするか?」と最後に聞いてみたが、そこでパッタリと返信が途絶えてしまった。

私はなぜ彼(彼女?)がそう思ったのか、じっくりと聞いてみたかったのだ。今後の参考になるかもしれないし。そのうえで、私の行動が過信だというのであれば、その理由も問うてみたかった。けれど、残念ながらそれは叶わなかった。

相手の方は私のことを冒頭で、誰もが知るような大手WEBサイトでの執筆実績がないと言っている。一見すれば、私の実績に対する批判にも見えるのかもしれないが、それは事実なのだから私は「そうですね」と返答する以外に返しようがない。

それでライターとしての実績が不十分だと言いたかったのかもしれないが、それを判断するのはその人ではない。クライアントであり、クライアントになりうる相手が判断することだからだ。

次いで、その人は私に「大した実績もないのに、それを自信と捉えているのではないか」という文脈の質問だ。その根拠はおそらく、会費の高さにあるだろう。

たしかに、一般的な交流会にしては高い金額になってしまった。これには反省している。会場選びの条件から、格安な居酒屋を除外してしまったからだ。しかし、結果的に参加者は少なかったとはいえ、それで良かったと思っている。

初めて顔を合わせる者同士だ。しかも、同業者で互いにいろいろと話したいこともある。それなのに、チープな居酒屋のあの喧騒のなかで、限られた時間とはいえ、ゆっくりと話せるとは思えない。そんな背景を知らない相手にどうこう言われたところで、「それなら、あなたならどうするか?」と尋ねるほかない。

これが「なぜ、そんな高い会費を徴収したのか?」と問われれば、説明もしただろう。ところが、そうは聞かれなかった。私の気のせいかもしれないが、「人が集まると思ったのか?」という嘲笑じみた感情が匂っていたので、私は私の行動の根拠を述べた。

集まれば嬉しいし、集まらなければ機を見て再びやればいい。

それくらいのことだった。さすがに突いてくるところがなくなってしまったのか、「あなたはこれに対してどう思うか?」という問いに応えてもらえぬまま終わりを迎えた。

これはあくまでもやり取りの一部を切り取ったものだ。その前には数回のやり取りがあった。私をこき下ろしたかったのか、それとも単に目が付いたから意見を言ってやりたくなったのか。そのどれもがどうにも中途半端すぎて、私はただただ違う感性に触れる機会を失ったと感じた。

私にとって、こうしたコメント(リプライ)を送ってくる相手は、その人が初めてだった。これが、最初から最後まで罵詈雑言で埋め尽くされたものなら、私も「なるほど、これが俗にいうクソリプというものか」と無視を決め込んだかもしれない。

内容はどうあれ返信をしたのは、意外にも相手が丁寧だったからだ。私からの返信に「返信ありがとうございます」と言える人だったから、これは話をしてみたら、私にはない考え方を知るキッカケになるかもしれないと思ったのだ。

批判をしたいのであれば、きちんと自分の考えを伝えることだ。自分の価値観に照らし合わせて湧き出た意見なら、なおさら相手に伝わるように。

話してわかるかどうかは重要ではない

ハッキリ言って、お互いに違う感性・価値観を持っている人間なのだから、100%理解し合うことなど不可能。理解し合えていると思っているのは、相手から受け取る情報が多いからだ。

自分のなかに組み立てられた相手のイメージに、相手から受け取った情報をパズルのピースのように当てはめて立体にしている。私たちは、その立体的なイメージを通して相手を見ているのだ。

これを人は「色眼鏡」だとか「フィルター」だとかいうが、どんなピースを当てはめているかで、見え方が異なる。だから、「話してわかる」なんて自分の都合の良い解釈だと考えることもできる。

じゃあ、誰とも心で繋がれないじゃないかという人もいるかもしれない。人間関係において、互いを理解をし合うだけが重要なことではない。理解はできなくても相手を受け容れる。互いにこれができれば、人間関係は築いていける。

だから、私たちは話し合うんじゃないだろうか。相手を受け容れるために。自分を受け容れてもらうために。そのために『言葉』があるんじゃないだろうか。

わかり合えなくても『お互い様』だ

人は価値観という眼鏡をかけている。それを通してモノを見ている。だから、木を見る人もいれば、森を見る人もいるし、山を見る人、足元の石コロを見てばかりの人もいる。

木を見る人が、足元の石コロばかりを見る人と話をしても噛み合わない。これは他の組み合わせでもいえる。それなら、ピントを調節するしかない。ここで自分ばっかりと思ってしまえば、相手への反発心になる。けれど、もしかしたら自分も知らないところで、そうやって誰かにピントを合わしてもらっているかもしれない。そう考えれば、お互い様なのだ。

ピントを合わしてみてもわかり合えない相手もいる。けれど、それを無駄な時間・無駄な労力と感じるかは、自分次第だ。その経験で得たものが、もしかしたら後々誰かと関わるときのヒントになるかもしれない。

無駄な時間だと切り捨てるのは簡単だ。もちろん、なかには切り捨ててもいい相手もいる。あなたの心が「関わりたくない」と叫ぶ相手なら、サッサと背中を向けてしまっていい。何も、わざわざ傷つきにいく必要もなければ、傷つけられる必要もないのだから。

そうではないときは、少し膝を突き合わせて、相手の見ている世界に目を向けてみてもいいんじゃないだろうか。

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