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他人からの期待を自分を縛る道具にしないために

期待されることを好む人もいるが、私は期待をされることが好きではない。息苦しくなるのだ。けれど、今までそこにちゃんと向き合っていなかったことに、気がついた。

気がついたキッカケは一つのメッセージだった。有難いことに、私にファンレターを送ってくださる方がいる。初めて直接的にそれを伝えてもらえたときは、恐縮する思いだった。ファンレターを受け取る作家さんやクリエイターさんの気持ちがほんの少しだが、わかったような気がした。

それと同時に期待されている自分に、私は少し息苦しくなった。その人のせいではない。これは、私の心の問題だ。

なぜ、私は期待されることに息苦しさを感じるのだろうかと考えた。ライターとしての仕事で、有難いことにお褒めの言葉をいただくことは多々あり、なかには期待の言葉も混ざっている。けれど、そのときには「よし、次も頑張るぞ!」と奮起できる。そう、私にとっての良いカンフル剤になっているのだ。

なのに、どうしてある期待にのみ、過剰に反応してしまうのだろうか。今さらながらに考えて、ある一つの結論に辿り着いた。

期待には2種類ある

あなたが誰かに対して期待をするとき、そこには2種類の期待が存在している。一つは、相手の人格に対する期待。もう一つは、相手の行動に対する期待だ。

仕事上で褒められる、次を期待される。これは後者にあたる。一方で、自分が想像する相手であってほしい。これは前者にあたる。

わかりやすくいえば、芸能人に対して視聴者は各々好き勝手なイメージを抱いている。それは役柄に起因するものであったり、トーク番組やバラエティ番組などで見せる姿で紐づけられるものであったりとさまざまだ。その顕著な例でいくと、いまは幸せな家庭を築いているベッキーさんが、まさにそれだろう。

清純で優等生というイメージが定着していた彼女に、ふって沸いたスキャンダル。あの一件で、彼女のイメージは総崩れした。今でこそ、ざっくばらんな姿を見せて、またも可愛らしい笑顔を見せてくれている。(ちなみに私は、ファンとまではいかずともベッキーさんが好きだ)

事務所側の意向や戦略もあっただろうが、視聴者に抱かれたイメージには、見かけだけでなく中身まで『清純で優等生のベッキー』というものが大きかった。だから、彼女はあの件で、多くの視聴者に掌を返されてしまった。もちろん、彼女がしたことは(日本の法律や倫理観の上では)褒められることではないだろう。

話を戻そう。人格への期待感。これも、人によっては奮起の材料になる。「そう見られているなら、それにそぐう人間でいよう」と、自分を律するための一つの要素になることもある。だが、私の場合はそこまで達する前に、心の中で過呼吸になる。

人格に対する期待感が、私にとっては無言の圧力になってしまうのだ。

期待感が圧力になる。アダルトチルドレンの残骸

私にとって人格への期待は、無言の圧力……。そう聞くと、なんだか面倒くさそうな人だなと思うかもしれない。思ってくれて構わない。自分でも面倒くさい奴だな、と思うほどなのだから、他人が思わないわけがないのだ。

なぜ期待感が圧力になってしまうのか。それは、子どもの頃から自分に向けられてきた意思や感情の根底に、期待感が内包されてきたからだと思う。

私は母子家庭だったが、母はとても体裁を気にする人だった。元お嬢様だった祖母も、そこそこ体裁を気にするタイプだったが、それ以上に母は気にする人だった。他人から向けられる目に、異様なほど敏感だった。

子どもの頃はその"異様さ"に、気がつかずにいた。幼少期は、ほとんど母と顔を合わせることも、会話をすることもなかったせいかもしれない。小学校に入学すると同時に、母が結婚をした。それを機に、母は夜の仕事を辞めて昼のパート仕事一本だけにした。

それまで母と過ごす時間がほとんどなかった私にとっては、嬉しい反面、ものすごく不思議な気持ちだった。けれど、母のことをあまりよく理解していなかった私は、彼女がすることを、そっくりそのままプレゼントを受け取るようにして受け止めていた。子どもの頃は、『他家の母親』と自分の『母親』の違いに目を向けたことがなく、母親だからというだけで全てを承認し、受容していた。

母は、世間から良い母として認められたかったのだと思う。後から気づいたことだが、母は「愛されたい人」で「認められたい人」だった。きっと、寂しさもあったのだろうと思う。

私の母は、私を身籠ると、恋人だった父に捨てられた。いや、最初から結婚するつもりもなかったのだと思う。それに対して私が今さらどうこう言う気もない。そんな経緯もあり、母は周囲から中絶を勧められた。それでも母は、恋人が戻ってくるという一念で私を産んだ。

そんな背景もあって、母は「良い母親でなければ」という意識が次第に強くなっていったのだろうと、私は推察している。というのも、いまだかつて私は母と実父の話をまともにしたことがないのだ。それは、きっと彼女が死ぬまでないと思うし、私も知らないふりをしていくことを決めている。

母にとって私は、生きがいでもあっただろう。でも、それと同時に母親としても立派にやっている自分を演出する道具でもあった。だから、母は口にこそ出さなかったが、世間一般の子どもよりも「聞き分けが良く」、「礼儀正しく」「優秀」な子どもを私に求め続けていた。私を躾けることで、母は「母親としても自分は素晴らしい。認められるべき存在」を誇示したかったのだと思う。

それを被害妄想と片付けてしまうのは簡単だ。きっと、こうした無言のなかで四六時中、それもじわりじわりと侵食するように与えられるプレッシャーは、当の本人である私自身でさえ、気がつかなかったのだから。明確な言葉と態度と力で加えられる人格否定なら、気がつく人もいたかもしれない。自分でも気がついたかもしれない。そうとは違う無言の期待感は、まるで油が肌に浸透していくように、自分の人格が塗り替えていくのだ。

今でこそ母からの期待感という名の否定行為に、対処できるようになったものの、ふいに向けられる他人からの期待感には、まず拒否反応が出てしまう。もちろん、表立って現すことはないが。相手はそんな気なく向けてくれる善意の期待を、私は母からの期待感のように受け取りそうになるのだから心が痛い。

そう、期待感に圧力を感じているのは、あくまでも幻影を見ているのと同じことなのだ。小さなフラッシュバックを起こしているといってもいいのかもしれない。

幻に打ち勝つには、相手と自分の問題を切り離すこと

期待を感じてもらうのは、決して悪いことではない。だから、本当は有難いことなのだ。それだけ、自分に希望を持ってもらっているということなのだから。

そうは理性で考えられても、心はすぐには追いつかない。圧力と感じてしまうのは、脊髄反射のようなものだからだ。でも、その圧力は幻影だ。自分のなかに根付いた過去の価値観から生み出された幻だ。それ以上でも、それ以下でもない。ものすごく精巧なホログラムを、心の目で見ているようなものなのだ。

だから、ゆっくりと幻から焦点を引き離し、自分と相手をも切り離していく。それは相手と距離を取るということではない。期待を寄せるのも、寄せた期待に失望をするのも相手の問題であって、自分の問題ではないと分けるのだ。それには、抽象度を上げる必要がある。

相手からの期待を自分に重ねてしまうとき、抽象度──いわゆる問題への視点は、超近距離に位置していると考えていい。読書するとき、顔面すれすれに本を寄せれば、文字が見えない。その状態と同じで、問題の輪郭がぼやけてしまっているのだ。

けれど、文字が読める距離まで離せば、文字を判別することができて、話の内容がきちんと目に飛び込んでくるはずだ。期待感にしてもそうだ。「期待を向けられている」と感じたら、その期待を体現する自分をイメージするのではなく、自分がなりたい自分と相手が望むイメージの輪郭をまずは自分のなかに描く。そうすれば、自分と相手が別々のものを見ていることに気づく。

そのうえで、相手の期待に応えるかどうかは自分で選択すればいい。自分で自分の生き方を選ぶのだ。

そうするだけで、心は随分と軽くなる。私のように誰かの期待にそうことを、生き方の中心に置いてきた人間にとって、期待の裏側にある失望感は恐怖の対象だ。全人格の否定に通ずるほどの衝撃になる。でも、本当は相手が向ける期待感に自分の全てを委ねる必要など、これっぽっちもないのだ。

『自分を生きる』とは、結局そういうことなのだ。どれだけ自己の輪郭を鮮明に描き、それを描き続けていくか。

生きていれば、自分なりに精一杯、誠実にやったことですら失望されるときはある。互いに向いている方向や、見ている景色が違っていたのだ。だから、そんなときはまず「相手が失望した」事象として受け止める。反省して次の糧にするのは、その次のステップだ。

これらを当たり前のようにしている人にとっては、わからないかもしれない。無理に理解をしてもらう必要もないのだと思う。ただ、そんな人たちもいる、くらいの認識でいいのだ。

でないと、今度は別の幻を見ることになる。「普通」と「普通じゃない」という、アダルトチルドレンが桃源郷のように抱く幻影に、また悩まされることになってしまう。


なんだかんだと書いてきたけれど、期待されるのは、それだけ自分を見続けようとしてくれる人がいることの証でもある。私は、いつの日か心の底から「期待してくれてありがとう」と言える人間になりたいと思う。だから、私は今日も『わたし』を生きていく。

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