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"セックス"は誰のもの?

とても大事なことなのに、なぜか有意義な学びどころかロクなルール説明もないまま実践に放り込まれるものといえば「お金」と「セックス」であろう。不思議だ。わたしたちはみな「セックス」によって生まれるのに。そしてわたしたちが生きる社会は「資本主義」(つまりはお金をベースにまわる社会)だというのに。

毎週配信しているポッドキャストの最新回で、「性」にまつわる話題に触れる機会があった。ものすごくかいつまんで話すと、「性犯罪などネガティブな性のニュースなどに引っ張られて、自分のセックスもそれに影響されてしまうことがある」というリスナーさんからの声。パートナーとのセックス中に加害者・被害者のイメージが浮かんでしまうことがあってつらい、と。

最近、立て続けに「性犯罪に対する無罪判決」がニュースとなっていたから、憤りを感じていたひとも多いだろう。被害を受けたことのある方にとっては言葉を失うほど腹立たしく、恐ろしい判決だろう。何より様々なハードルを乗り越えて訴え出た女性たちの心情を思うと泣きたくなる。

−セックスについて考えるとき、若かった頃のわたし自身の経験も思い出す。

恋人と一緒に寝ているが、自分はしたくない→断る→それがちょっと続く→「悪いかな」という気になってくる→乗り気じゃないけど、セックスに応じる。

こんな経験、わりと多くのひとがしているのではないだろうか。100%ハッピーなわけではなかった性体験。心も体もとりかえしのつかない傷を追ったわけではないけれど、確かにうっすらと心に傷はついた。

日本の性的同意年齢は13歳。なのに「寝た子をおこすな」とか何とか言って性教育は遅々として進まず(いやもうこの時代、みんな起きてますって)。

思い出すも腹立たしい、昨年の杉田議員の「生産性」記事を擁護した小川榮太郎は「(LGBTの方々へのコメントとして)人間ならパンツは穿いておけよ」と書いていたが、何であの種の人々は、LGBTQの方々を語るとき常に「セックス」を持ち出してくるんだろう。カップルですること、それしか思い浮かばないの?

「公」で語らぬものとしているわりに、街には性の広告が溢れる。

「公」で語らぬものとしているわりに、子どもはたくさん産んでほしいらしい(つまり、ある年齢では「いけないもの」として禁止しておいて、ある一定年齢になったら「どんどんして」ってこと?)

セックスをする、しない。

何歳で初めてする、しない。

誰とする、しない。

子どもを持つ、持たない。

それらはわたしたち自身の選択じゃないの?

セックスって誰のものなの?

答えは出ない、でも考えてる。

#日記 #コラム #WithYou  






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