あの夏のオアシス

もう何千回と聴いてきた携帯のアラームが今朝も無常に鳴り響き、神崎未央は枕元をバタバタと叩き探って呻いた。

「んー、、」

寒い。栄太がまた明け方エアコンの設定温度を下げたに違いない。やめてってあんなに言ったのに−。苛立ちと諦めの気分が同時に湧き上がるのを感じながら、冷え切った手足をタオルケットで包む。隣で眠りこける栄太を右肘でぐいっと壁側に押いやり、

「ちょっと!」

2人で寝るには狭すぎるベッドから抜け出た未央の動きに合わせるように、ゴロンと寝返りをうったまま眠り続ける栄太を見下ろし、未央はため息をついた。

−なんでわたし、まだこの人とつき合ってるんだろ。

のろのろと風呂場に向かい、熱いシャワーを全開にしてから、タンクトップを脱ぐ。湯気で曇り始めた小さな鏡の前で、あらわになった上半身をじっと見つめた。首から鎖骨、肩のライン。すっかり見慣れたコンプレックスの小さな胸。

–このからだ、見たことあるの栄太だけなんだよなぁ。

もしも。もしも自分がもっとナイスバディで、誰もが羨む美貌の持ち主で、性格だって可愛げがあったら、わたしにも自信ってものがあるのだろうか。ちょっと嫌だと思ったら、彼氏とだってすぐ別れられるのだろうか。どうせすぐ次の人が見つかるはずだから、って。

未央にはそうは思えなかった。2年前の夏、大学3回生になってやっとできた彼氏なのだ。こんな自分にも好きだと言ってくれるひとが現れるなんて奇跡だと思った。

だからまだ一緒にいるのかな。恋心なんてもう、あるかないかも分からないくらいになってしまったのに−。

不服そうに見つめてくる鏡のなかの自分から目をそらし、短パンと下着を一気に脱いでシャワーのなかへ飛び込んだ。

◇◇◇

「すみません、電車1本乗り遅れちゃって。でも集合時間には間に合います」

同じ電車に乗って会場まで一緒に行こうと誘ってくれていたマキ先輩にメールをして、阪急電車の最寄り駅まで小走りで急ぐ。アスファルトをじりじりと焦がし始めた太陽、大合唱に精を出す早起きなセミたちの声。こんな貴重な夏の休日に、未央はよくわからない仕事に借り出されて、わざわざ大阪まで行かねばならない。

関西圏、小さな会社とはいえ、曲がりなりにも出版社に入社して編集の仕事に就いているはずの自分になぜこんな役回りが回ってくるのか、未央にはまったく合点がいかなかった。クライアントの手伝いとか何とか言って、結局はこうして、暗黙の了解みたいに若手社員の休日が献上されていくんだもの。

大人って、めんどくさいのだ。縁やコネや恩や貸し借りで動く世界。

それが入社1年目の未央が覗いた大人の世界だった。

◇◇◇

「未央ちゃん、お客さん引いたし、いまのうち休憩しておいでよ」

スタッフ全員に配られた緑の販促Tシャツでさえすっかり着こなし−おしゃれ人間ではない未央にはわからないが、たぶん、選ぶサイズ感とか袖や裾をどう折ったり入れたりするかでこんなTシャツでさえ可愛く着こなしている−ビールを注いでいたマキに声をかけられ、未央は自分がうっかり夢中で働いていたことに気づく。

「でも先輩のほうが休憩まだなんじゃないですか?わたし、1度お昼に休憩頂いたんで大丈夫ですよ」

夏フェスでのビール売り。それがこの週末の仕事だった。営業にはノータッチの未央は全く知らなかったのだが、毎年うちの出版社はクライアントの手伝いとしてこの都市型夏フェスのビール販売ブースに借り出されているらしい。

ビキニにショートパンツで会場を闊歩する綺麗なお姉さんたち。ドレッドヘアを揺らしながら音楽に没頭する不思議な男もいれば、いかにも音楽好きなおしゃれなカップルもいる。ただただ騒ぎたいだけの若者グループは、意外なほどに少数派。次から次へと現れては緑の紙カップに注がれたビールを嬉しそうに持って立ち去るピースフルな人々を相手にする作業は慣れてしまえばなんて事はなく、目を挙げた先のステージに現れるアーティストたちの音を楽しむ余裕さえ出てきた。

−我慢できないのは、こっちだよ。

ビアサーバーの後ろに陣取った、会社のお偉方に視線を向ける。「応援しにきた」と言いつつ、ときどきビールをかすめとってはおじさん同士−本人たちはおじさんなんて絶対に思っていないだろうが−おしゃべりするか、ブース内外で可愛い女の子たちにちょっかいを出す姿に、未央は心底げんなりしていた。

「マキ、神崎ちゃん、今日、終わった後、打ち上げ行く?」

突然、ご機嫌で声をかけてきたのは編集長の大谷だ。隣で釣り銭を数えていたマキに思わず目をやると、一瞬浮かんだイラついた表情を次の瞬間見事に消して未央に目配せした後、満面の笑みで答える。

「すみませーん、わたし、今日予定があってぇ」

鼻にかけた甘ったるい声で断るマキに、大谷はなんでやねんな、彼氏か?とお決まりのようにかぶせてきた。

「神崎ちゃんは?」

普段は未央の名前さえ知らないんじゃないか、と思うほどスルーしてくる大谷だ。これは、お気に入りのマキをわたしとセットで連れて行きたいんだなと、そのへんの機微に疎い未央でもさすがに察する。

「すみません、わたしも予定あるんです」

「またまたまたぁ、そんな、嘘言わんでええのに」

またか。

からかうように大きな声で笑う大谷と、困ったような視線を投げるマキ。社会人になってからというもの、何度となく晒されてきたこの手の視線と状況に、未央はいまだ慣れずにいた。どういうこと?わたしに予定なんてあるはずないってこと?これってバカにされてるの?わたしがマキ先輩みたいに可愛くないから?編集長の昔の自慢話にうまく相槌とか打てないから?それとも単にいちばん若手のわたしがいじられる役回りなの?何て返すのがここでの正解なの?

「・・・休憩行ってきます」

逃げるようにしてブースを出た自分の背中に、何人もの視線が刺さって落ちた。

◇◇◇

結局、休憩から戻った未央は、その日のトリを飾るOasisが出てくるまでただ黙々とビールを注ぎ続けた。ハンドルを手前に引いて黄金の液体が緑の紙コップの7割ほどまで注げたら、今度はハンドルを後ろに倒して真っ白な泡をフチのギリギリまで載せる。手前に引いて、押して。手前に引いて、押して。手前に引いて、押して、そして、

彼らはやってきた。

当初の予定時刻より40分ほど押して、ついにOasisのメンバーがステージに現れたそのとき、地鳴りのような歓声と拍手で会場は異次元の熱気に包まれた。もう何百回目かの「手前に引いて、押して」を繰り返していた未央も、思わず動きを止めて前方を見やる。目の前でビールを待っていた客も、隣で働いているマキも他のスタッフも。

もう誰もビールなんて買いに来なかった。Oasisの音楽と一緒に歌う数万人の声で、会場が塗り尽くされて、塗り尽くされて、

「あの、先輩」

ステージを見ようと隣でピョンピョン飛び跳ねていたマキに思わず声をかける。

「あー、もうぜんっぜん見えない。いいな、未央ちゃん、背が高くて」

「先輩、あの、わたし、辞めます」

大きな目をいっそう大きく開いて、マキは未央を見上げた。白い肌、長いまつ毛、明るく染めた髪はツヤツヤと肩の上で揺れている。お人形みたいな女の子。未央がずっとなりたくて、でも絶対なれないともう何年も前からわかっている"女の子"の姿がそこにあった。

「え?」

もしも、もしもわたしもマキ先輩みたいだったら。あんなふうに可愛く笑って、みんなにかわいがられて、こんなわけのわかんない職場だって、それなりに楽しくやっていけたのかな。

「編集長!」

酔いで顔を真っ赤にして気持ち良さそうに音楽に体を揺らしている大谷の前まで一気に進む。

「すみません、わたし、辞めます」

「は?」

思いっきり勢いつけてお辞儀をし、すぐそばのテーブルの上に無造作においてあった自分のリュックをひっつかむ。早く、早く。ここを出るんだ。誰も言葉が出ないうちに。自分の正気が戻らないうちに。

わたしがわたしを守る、この勇気があるうちに。

波のようにうねるひとの群れをかき分け、前へ前へと無理やり進む。心臓の音が聞こえる。大合唱が聴こえる。

"Don't look back in anger, I heard you say."

怒りにとらわれてちゃいけないって、君は言ったよね

帰ったら、栄太とも話そう。どうなるかわからない。自分がどうしたいかもわからない。でも、このままでいいわけないんだ、絶対に。

"Don't look back in anger, I heard you say."

怒りにとらわれてちゃいけないって、君は言ったよね

何万人と歌う夏が逝く。わたしはこれから、どこまで行けるだろう。どこまで行くのだろう。見よう見まねで声を張り上げ歌う未央を、いつか懐かしく思い出すことを、まだ、このときの彼女は知らない。

#フィクション #あの夏に乾杯 #2005年 #サマソニ






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