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わたしたちの会話が永遠に噛み合わない理由

誰かと何かのトピック、例えば社会問題やニュースについて話をしているとき。または、メディアで誰かが持論を展開するのを聞いたとき。いつも「このすれ違い具合はいったいどこから来ているのだろう」と考えていました。

同じトピックについて、様々な意見があるのは健全なことです。でも、そういう問題ではない。何が原因ですれ違っているのかを、図にしてみました。

ひと言でいえば、「視点と立ち位置の問題」です。

身近な社会問題、例えば「長時間労働、サービス残業の問題」「子どもの貧困」について語るとき、①こんなのおかしい、まず社会や制度を変えるべき、と思っているひと(「社会の変革」推し)と、②まずはいまの状況のなかで個人が変わるべき、努力すべき(「個人の成長」推し)の立場にざっくりわかれます。図でいうと横軸。

①の「個人の成長」推しという立場でも、既存のシステム内でサバイブしてきたひと(図のA)と、サバイブできていないひと(図のC)がいます。

図のCのひとたちについては、最後に触れるとして、まず図のAにいるひとを見てみましょう。

図のA、つまり「個人の成長推し」×「サバイブ組」のなかにも2種類います。ひとつは、いまの既存のシステム、前述でいえば「長時間労働」「子どもの貧困」等をガッツで乗り越えて来たひとたち。

彼ら彼女らは、自分がその問題を乗り越えて来たという成功体験があるので、ガッツも見せずに社会やシステムこそ変わるべきだと主張するひとたちにいまいち理解を示せません。だって、自分はがんばったもん。いまでもがんばってるもん。こうすればいいじゃん、何でしないの?(※1)

もうひとつの層は、そもそも恵まれていたので、既存のシステムで生きる大変さを実感しないまま、いつのまにかスルーしてきたひとたち。ある種の社会問題に無関心に、そして知らずして冷酷になりがちです。「子どもを産むって自分が決めたことなんだがら、“保育園落ちた日本死ね”とか甘えだ。それくらい覚悟してから産めばいいのに」と言った知人がいますが、比較的裕福な家庭で専業主婦のお母さんに育てられたその恵まれた環境に自覚がなくて残念すぎました。そもそも子どもを産むことに過剰な覚悟が必要な社会って、おかしくね?

この図のAの立ち位置にいるひとたちと、図のDにいるひとたち(社会変革推し×既存のシステムのなかで上手くやっていけていない or いけなかった層)が主張し合うと、まぁ、すれ違うことが多いです。なぜなら、AもDも寄って立っているのが自分の経験をもとにした「感情論」だから。

ちなみに、この立ち位置は「トピック」によって変化します。わたしの場合を例に挙げてみましょう。

たとえば、「長時間労働、サービス残業」。いまではほぼシステムの問題だと思っていますが、20代の頃はこんなこと、社会の問題とすら思っていなかった。話をふられればきっと「いや、どうこう言う前に、まずおまえが努力しろよ」と思っていたでしょう。なぜなら、わたしもその「長時間労働」を必死に乗り越えてきたからです。そして、そのなかで「ここで落ちこぼれるのは自分にスキルが/才能が/気配りが/コミュ力が(以下永遠に続く)足りないからなんだ」と、どうにかサバイブするためスキルを身につけてきた自負もあります(ちなみに、こういう成功体験持ってるひとがいちばんトンチンカンなこと言ってシステムの変化を阻害しがちでヤバい)。20代のわたしは、この「長時間労働、サービス残業」というトピックにおいてはAのポジションで話をしたことでしょう。

次に、たとえば「新卒採用の弊害」。わたしは日本の新卒一括採用意味わからん、と思っているけれど、これだって各種労働問題や日本企業の硬直性、国際的な競争力を細やかに見た上で客観的に主張しているのではありません。その元をぐいぐい辿れば、そこは正直、自分の就活の失敗に行き着きます。失敗したからこそ、「やっぱりどっかおかしいって、こんなシステム」と常時ひそかに思っていて、そこに「日本企業の硬直性の元凶は新卒一括採用にあり」なんて誰かのコラムを読めば、そうそう、そうだよね、と自らの感情的主張の根拠にします。就活戦線を勝ち抜いて自分の希望する会社、職種に就いたひと、いまでもそこでのびのびと働いているひとには全然響かないだろうし、「いや、おまえががんばればよかっただけの話じゃん」と思われるでしょう。

◆◆◆

「個人の成長」推しのひとだって、社会全体がもっとよくなることを望んでいるし、「社会の変革」推しのひとだって、個人が変わらないと始まらないことも知っています。けれど、相当客観的に問題を把握していない限り、主張する際にはみんな必ずどちらかに軸足がある。そして自分や他人の軸足がどこにあるのかを知らないまま話をしても、すれ違ったままでお互いモヤモヤするだけです。

「日本は、本来システムや構造の問題として解決すべきところを、根性論で対処しようとする」(といったニュアンスのこと)と言ったのは、走る哲学者といわれる為末大氏。

「(同性愛者であることで様々な無理解、不利益を被ってきたのは)自分が弱いからいけないんだと思っていたけど、そうじゃないんだと気づいた。これはわたしのせいではない、社会の問題なんだ、と」と言ったのは、全米で同性愛者の結婚を合法化するために立ち上がった、レズビアンの原告が言ったひとことです。

「個人の成長」推しのひとは、対岸にいるひとたちの言うことに真摯に耳を傾けてみませんか?もしかしたら、あなたが普通だと思って育ったその環境はものすごく恵まれていたのかもしれません。成功体験を積んだあなた、あなたが努力したことは尊敬に値しますが、だからと言ってお腹がすいてヨロヨロしているひとに「毎日筋トレすればいいんだよ」なんてトンチンカンな要求をしていませんか。わたしたちは体型、顔かたち、心と体の弱さや強さ、持っている能力、ひとりとして同じではありません。

「社会の変革」推しのひとは、自分の失敗や上手くいかない日常を、ただ社会や既存のシステムのせいにしていないか、自分の胸に手をあてて聞いてみませんか?いまの人生に納得していないひとほど、過去や周りに原因を求めます。自分の視点を自由自在に動かして、どこに本当の理由があるのか考えてみましょう。問題の解決方法やヒントは、大体いつも「そんなのありえない」と見るのを避けている場所に、隠れているものです。

◆◆◆

わたしたちが、みなきれいさっぱり分かり合える日は、残念ながら来ないでしょう。けれど、「どうせ来ないんだったら何もしない」というのと「その日は来ないかもしれないけれど、だからと言って何もしない理由にはならない」と、お互いの主張を見つめるのとでは天と地ほどの差があります。

自分の軸足が「個人の成長」推しであれ、「社会の変革」推しであれ、いちばん重要なことは、いまCにいるひとたち、「いまの状況は自分が招いたことなんだ」「自分がもっとがんばらないといけないんだ」と暗闇のなかで助けを求められずにいるひとたちに、それぞれが「そうじゃないんだよ」と手を差し伸べることだと思うのです。

※1)自身が努力、苦労したからこそこのシステム自体を変えようと活動をしている方もたくさんいらっしゃいます。彼ら彼女らが図のBに位置するでしょう。

また、自身の成功体験があってもなくても感情をもとにした主張ではなく、様々な視点から物事をみて主張をする方ももちろんいます。彼ら彼女らは問題を客観的に見つめることができ、視点を自由自在に操ることができるからです




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