ストリートグルメ

伝統を守る責任と、今に適応させること

Netflixのストリート・グルメを求めてのインドネシアの回。シェフのテーブルでもそうだったが、“伝統”を大切にしている人たちに共感する。
伝統的なものを現代に合わせて発展させるとき、伝統を正しく理解していることがポイントだ。伝統が伝統たる理由は、1000年単位の歴史があるからなのだ。それなしに現代にアレンジしたものは、遅かれ早かれ廃れてしまうものと考えている。

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私が語れる伝統は、ヨガのこと。かつ、私の指すヨガといったら、ヴェーダの一派のヨーガとなる。ヴェーダの一派のヴェーダーンタの概念とヨーガは見方が違う。もっと言うと、ヴェーダじゃないプラパッティヨーガのコンセプトとは全然違う。

ヒンドゥイズムとミックスしたら特定の人にしかフィットしない。ヨガ=ヒンドゥイズムなのはプラパッティヨーガだ。あるいは、日本人にはブッディズムが理解しやすいって言われたりもする。確かに、ヒンドゥイズムよりは頭で理解できることも多い。
そうはいっても、ヒンドゥーでも仏教でもない見方がヨガにはある。それが、ヴェーダに含まれるヨーガだ。

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ヴェーダはブラーミンのものだから、外国人である私が語れるようなものではなく、学者だったり高名なスワミじゃないと本質を伝えることなんか不可能だ。でもかろうじてヨーガと、一部のサーンキヤだけは一定の理解まではたどり着けた。

そんな私に言えるのは、伝統とは古今を通じ、洋の東西を問わないってこと。

そこにはヴィニヨーガのコンセプト(Kala, Desa, Vayah, Vrtti, Sakti, Dharma, Iccha/Marga)がある。
つまり、気候や地理・肉体や体の機能の年齢や心理的な年齢・肉体的(呼吸も含めた)強さや精神的(スピリチュアル面も含めた)強さ・担っている役割や職業etc. を鑑みるっていう原則があるから、そこを抑えることでいつの時代も誰にでも当てはめることができるのだ。

年齢や体の違いは当然ながら考慮するとして、気候が違うインドと日本では考慮すべきポイントも違うし、スピリチュアル面においては特に違う。保育士と看護師とデスクワークの人とでも考慮すべきポイントが違う。それに“お母さん”という役割が加わったりすると、さらに考慮が必要だ。

このように、柔軟にヨガを個人個人にフィットさせることをヴィニヨガという。
これはクリシュナマチャリヤ師が考案したメソッドなのではなく、ヨガスートラにもあるコンセプトなのだ。すなわち、ヴェーダの一派としてのヨーガの伝統はここにある。

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ネトフリの、料理の伝統が失われることについて戻る。

例えば料理に使う特別な野菜を育てる人がいなくなったり、例えば特別な手法で砂糖を作る人がいなくなったり、その料理を作る人がいなくなってレシピ自体がなくなったり。

その原因は商業化だ。商業化することで、隅々までいきわたる(手に入りやすくなる)メリットがある。その一方で、クオリティはあっという間に落ち伝統は失われる。

ドキュメンタリーでは伝統を守る責任を感じている人が多く紹介されていて、そんなところに私は共感を覚えている。


Mika(@mikachant)でした。

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